5.最後の種籾

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5.最後の種籾

「作兵衛どんが死にそうだげな」
 うわさを聞きつけ食べ物の雰囲気をかぎつけた村人たちが集まってきた。
 作兵衛はすでに瀕死
(ひんし)の状態で、横になったまま動くこともできなくなっていた。
 そのそばでカメと次女がしくしく泣いていた。
「あわれな」
 村人たちは何とも声が掛けられなかった。

 ただ、作兵衛が枕にしているものは気になった。
(食い物だ)
 作兵衛は麦の種籾
(たねもみ)を一斗ばかりを俵に詰めて枕にしていたのである。
 村人の一人が勧めた。
「作兵衛どん。まだ麦があるじゃないか。これを少しずつおかゆにして食べたらどうだい?作れないなら、作ってあげるよ。へっへっへ!」
 すると、今まで虫の息だった作兵衛が、突然目を見開いて怒った。
「これはダメだ!これは麦ではない!麦の種なんだ!来年の種籾なんだ!」
「種籾だって麦には違いないだろう。ここのみんなももう、来年の種籾にまで手をつけてしまっているんだよ。さあ、みんなで食べようよ。命より大切な麦の種なんてないよ」
 作兵衛ははらはらと涙を流した。
「あなたたちは何もわかっていない。なおさらおらはこれを食べるわけにはいかない。これがあれば、来年のあなた方を救うことができる。食べるつもりであれば、とうに父や息子にも食べさせていた……。おらだけが食べるわけにはいかないんだ!わずかな人がわずか一、二日生き延びるために種を絶やしてしまってはならないんだ!この種は、来年には何百何千何万倍にもなるんだ……。何百何千何万もの人の命を救うことができるんだ……。国の基は農なり!農の基は種なり!お願いだ……。どうかこの種籾は、ここにいる娘たちにも食べさせないでくれ。どうか来年まで、あなた方がこれを死守してくれ……。おらの家族の何百何千何万倍もの人々の命を救うために……。頼む。このとおりだ……」
 村人たちはしゅんとなった。

 九月二十三日、作兵衛は麦の種籾を枕にしたまま死んだ。享年四十五。
 十月、カメも後を追うように死んだ。
 翌享保十八年(1733)、村人たちは作兵衛の残した種籾を大事にまいて麦を育てた。
 この年は豊作で、多くの村人が救われた。
「作兵衛どんのおかげだ」
「作兵衛どんは正しかった」
「作兵衛どんは命に代えて将来の大切さを教えてくれたのだ」
 村人たちは口々に彼の偉業を褒め称えた。

 一方、領民に施米をしなかった松平定英は、暴れん坊ケチんぼう将軍徳川吉宗から謹慎を命じられた。
「成敗!」
 領内から多くの餓死者を出したにもかかわらず、藩士には餓死する者が一人もいなかったことが米将軍の逆鱗
(げきりん)に触れたのであろう。
 定英は領民に対するおわびとして、その年の年貢を免除した。
「仕方ないじゃないか。誰だって自分たちが一番大切なんだよー! 将軍よ! あんただって余と同じ立場であれば、余と同じことをしただろうよっ!」
 定英は翌年許されるが、その年にぽっくり死んだ。享年三十八。

氏 名 享年 平均享年
藩祖 松平定勝 75歳 61.8歳
初代 松平定行 82歳
2代 松平定頼 56歳
3代 松平定長 35歳
4代 松平定直 61歳
--- 享保の飢饉 ---
5代 松平定英 38歳 39.67歳
6代 松平定喬 48歳
7代 松平定功 33歳
8代 松平定静 51歳

 安永五年(1776)、十代藩主(久松家八代)・松平定静(さだきよ)が作兵衛の偉業に感銘して顕彰頌徳碑(けんしょうしょうとくひ)を建立した。
 しかし、なぜ作兵衛の死後三十年もたってから建てられたのであろうか?

 ここに恐怖のデータがある。
 左表に松山藩主久松松平家の藩祖から八代藩主までの氏名と享年を列挙してみた。

 これを見てお気づきであろうか?
 元来、久松松平家は概して長命であるが、享保の飢饉の五代定英以降、突然短命になり、しかも三代続けて頓死
(とんし)しているのである。

「これは作兵衛ら享保の飢饉で死んだ者達のたたりではあるまいか?」
 定静は気づいたのであろう。
 彼が作兵衛を顕彰した理由は、その偉業に感銘したのではなく、たたりを恐れたためかもしれない。

[2008年5月末日執筆]
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