1.淀屋の繁栄 | ||||||||||||||
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淀屋(よどや)は江戸時代前期に大坂(大阪府大阪市)で栄えた豪商である。
初代淀屋常安(じょうあん。与三郎)は山城岡本(おかもと。京都市北区)荘出身の材木商で、豊臣秀吉の聚楽第(京都市上京区)や伏見城(京都市伏見区)築城に加わり、大坂に出て十三人町(大阪市中央区)に居住、屋号を「淀屋」とし、淀川の堤防工事や豊臣軍の兵糧運送などを任せられて大もうけした(「淀屋系図」参照)。
大坂の役では徳川家康の茶臼山(ちゃうすやま。大阪市天王寺区)本陣と徳川秀忠の岡山(おかやま)本陣を構築して献上、米や食料を買占め、うんかのように群がる徳川軍相手に商売をして、これまた大もうけした。
このとき、家康から褒美として山城八幡(やわた。京都府八幡市)の山林田地三百石を与えられている。
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現在の中之島(大阪市北区)周辺 |
また、大坂落城時には、戦場の後片付けを申し出、戦死者の遺体を回収、武器や武具や着物や馬具など金目のものを接収し、これらを売りさばいて、またまた大もうけした。
さらに、淀川の中州・中之島(なかのしま。大阪市北区)の開拓を申し出、淀屋橋を架けて町家を建設、西国諸藩の蔵屋敷を呼び込み、「江戸日本版ウォール街」を現出して、またまたまた大もうけした。
さらにさらに、淀屋屋敷内の京橋南詰に青物(野菜)・魚市場を開設、大坂人三十万人に野菜や魚を売りまくり、またまたまたまた大もうけした。
これが天満青物市場や雑喉場魚市場の起源である。
三大市場 |
堂島米市場 天満青物市場 雑喉場魚市場 |
常安は江戸幕府から中之島に屋敷を与えられて住み(常安屋敷)、元和八年(1622)に没した。
常安屋敷には分家の養子・善右衛門(ぜんえもん)の系統が住み、現在は常安町(北区)なる地名が残っている。
一方、本家二代淀屋三郎右衛門言当(さぶろうえもんげんとう・ことまさ。玄个庵・个庵。常安の子)は、淀屋橋南詰(大阪市中央区)に米市(北浜の米市)を開設、西国諸藩の蔵米(くらまい。蔵屋敷の貯蔵米)の販売を藩の蔵役人から代行し、町人蔵元の祖となった。
この米市が、今日の世界経済の発祥地ともいえる有名な堂島米市場の起源である。
また、米どころ加賀百万石に目をつけ、時の加賀金沢(かなざわ。石川県金沢市)藩主・前田利常(まえだとしつね。利家の子)と交渉、加賀米一万石を大坂へ回送することに成功した。
つまり、海運業にも進出したわけである。
さらに大坂の惣年寄に就任し、同職・川崎屋宗言(かわさきやそうげん)とともに大坂商人の地位向上に尽力、長崎奉行・竹中重義(たけなかしげよし)に掛け合い、大坂商人の糸割符仲間入りを実現させた。
言当は寛永十二年(1635)に没したが、その後、三代三郎右衛門箇斎(かさい。言当の養子。1648年没)、四代三郎右衛門重当(じゅうとう・しげまさ。箇斎の子。1697年没)を経て、五代三郎右衛門広当(こうとう・ひろまさ。辰五郎。重当の子)が跡を継ぐのであった。