1.感動!吉野会盟!!

ホーム>バックナンバー2012>1.感動!吉野会盟(よしののかいめい)!!

金正日は病死したのか?
1.感動!吉野会盟!!
2.昇天!天武天皇!!
3.略奪!石川郎女!!
4,看破!山辺皇女!!
5.密会!大伯皇女!!
6.非情!持統天皇!!
大津皇子 PROFILE
【生没年】 663-686
【出 身】 筑紫国娜の大津(福岡市博多区)
【本 拠】 大倭国訳語田(奈良県桜井市)
【職 業】 皇族・万葉歌人
【官 職】 浄大弐
【 父 】 天武天皇
【 母 】 大田皇女(天智天皇皇女)
【継 母】 持統天皇(天智天皇皇女)・大江皇女
・新田部皇女・藤原五百重娘・額田女王ら
【兄 弟】 高市皇子・草壁皇子・刑部親王
・穂積親王・長親王・弓削皇子
・舎人親王・新田部親王・磯城皇子
・十市皇女・大伯皇女・但馬内親王
・紀皇女・田形内親王・泊瀬部内親王
・多紀内親王・皇子某
【 妻 】 山辺皇女(天智天皇皇女)
【 子 】 粟津王
【従兄弟】 川島皇子・施基親王ら
【部 下】 礪杵道作ら
【墓 地】 本薬師寺跡(奈良県橿原市)
→二上山墓(奈良県葛城市)

 天武天皇八年(679)五月、天武天皇と皇后・鵜野讃良皇女は六人の皇子を連れて吉野宮(よしののみや。奈良県吉野町)へ行幸した。
 六人の皇子とは、草壁皇子
(くさかべのおうじ・みこ)大津皇子・高市(たけち)皇子・川島(かわしま。河嶋)皇子・忍壁皇子・施基(しき。芝基・志貴・志紀)皇子。
 うち、草壁と大津と高市と忍壁は天武天皇の皇子であるが、川島と施基は天武の兄・天智天皇の遺児であった
(「天皇家系図」参照」)

 天武天皇は昔を懐かしんだ。
「七年前、朕
(ちん)はここ吉野から出陣し、兄の子・大友皇子を討った」
 いわゆる「壬申の乱」である。
 弘文天皇元年(672)、天武天皇
(当時は大海人皇子)大友皇子率いる近江朝廷軍に勝利し、翌天武天皇二年(673)二月に飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)にて伝四十代天皇として即位したのであった。
大友皇子はおまえたちの従兄弟か兄弟だ。ここにいる讃良の弟でもある。身内同士の戦いは悲しみが多い。朕は二度とあのような戦いはしたくはない。おまえたちにもさせたくはない」
 天武天皇は息を継いだ。それから、皇子たちの方を向いてお願いした。
「おまえたちはみなは母は違うが実の兄弟そのものだ。ここで誓ってくれないか?将来、絶対に争わないと。ずっとずっと仲良しのままでいると」
 大津皇子が口を開いた。
「当たり前です。私たちはずっと仲良しです。母や父が違ったって関係ありません。父上の命に従って、助け合うことはあっても、決して争ったりしないことを誓います。もし、誓いを破ったのであれば、私は滅び、私の子孫は絶えてしまうでしょう」
 これを聞いて他の五人の皇子たちも口々に言った。
「私も誓います」
「僕も誓いを破ったら滅びてもかまいません」
「みんな、仲良くしようなっ」
「こんなに仲良しなのに、ケンカなんてするわけないじゃん」
「戦争はせんぞー」
 むつみあう皇子たちを見て、天武天皇は感涙した。
皇子たちよ!」
 彼は皇子たちを招きよせると、六人まとめて抱きしめた。
 鵜野讃良皇女ももらい泣きした。
「なんて美しい皇子たち……」
 で、彼女も思わずこう誓ってしまったのである。
「私もこの皇子たちと仲良しです。絶対に争わないことを誓います。もし誓いを破ったら、どんなにひどい災いを受けてもかまいません」


※ 『日本書紀』では最初に天武天皇に誓ったのは草壁皇子になっていますが、筆者は大津皇子だったような気がしてなりません。

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system