1.感動!吉野会盟!! | ||||||||||||||
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大津皇子 PROFILE | |
【生没年】 | 663-686 |
【出 身】 | 筑紫国娜の大津(福岡市博多区) |
【本 拠】 | 大倭国訳語田(奈良県桜井市) |
【職 業】 | 皇族・万葉歌人 |
【官 職】 | 浄大弐 |
【 父 】 | 天武天皇 |
【 母 】 | 大田皇女(天智天皇皇女) |
【継 母】 | 持統天皇(天智天皇皇女)・大江皇女 ・新田部皇女・藤原五百重娘・額田女王ら |
【兄 弟】 | 高市皇子・草壁皇子・刑部親王 ・穂積親王・長親王・弓削皇子 ・舎人親王・新田部親王・磯城皇子 ・十市皇女・大伯皇女・但馬内親王 ・紀皇女・田形内親王・泊瀬部内親王 ・多紀内親王・皇子某 |
【 妻 】 | 山辺皇女(天智天皇皇女) |
【 子 】 | 粟津王 |
【従兄弟】 | 川島皇子・施基親王ら |
【部 下】 | 礪杵道作ら |
【墓 地】 | 本薬師寺跡(奈良県橿原市) →二上山墓(奈良県葛城市) |
天武天皇八年(679)五月、天武天皇と皇后・鵜野讃良皇女は六人の皇子を連れて吉野宮(よしののみや。奈良県吉野町)へ行幸した。
六人の皇子とは、草壁皇子(くさかべのおうじ・みこ)・大津皇子・高市(たけち)皇子・川島(かわしま。河嶋)皇子・忍壁皇子・施基(しき。芝基・志貴・志紀)皇子。
うち、草壁と大津と高市と忍壁は天武天皇の皇子であるが、川島と施基は天武の兄・天智天皇の遺児であった(「天皇家系図」参照」)。
天武天皇は昔を懐かしんだ。
「七年前、朕(ちん)はここ吉野から出陣し、兄の子・大友皇子を討った」
いわゆる「壬申の乱」である。
弘文天皇元年(672)、天武天皇(当時は大海人皇子)は大友皇子率いる近江朝廷軍に勝利し、翌天武天皇二年(673)二月に飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)にて伝四十代天皇として即位したのであった。
「大友皇子はおまえたちの従兄弟か兄弟だ。ここにいる讃良の弟でもある。身内同士の戦いは悲しみが多い。朕は二度とあのような戦いはしたくはない。おまえたちにもさせたくはない」
天武天皇は息を継いだ。それから、皇子たちの方を向いてお願いした。
「おまえたちはみなは母は違うが実の兄弟そのものだ。ここで誓ってくれないか?将来、絶対に争わないと。ずっとずっと仲良しのままでいると」
大津皇子が口を開いた。
「当たり前です。私たちはずっと仲良しです。母や父が違ったって関係ありません。父上の命に従って、助け合うことはあっても、決して争ったりしないことを誓います。もし、誓いを破ったのであれば、私は滅び、私の子孫は絶えてしまうでしょう」
これを聞いて他の五人の皇子たちも口々に言った。
「私も誓います」
「僕も誓いを破ったら滅びてもかまいません」
「みんな、仲良くしようなっ」
「こんなに仲良しなのに、ケンカなんてするわけないじゃん」
「戦争はせんぞー」
むつみあう皇子たちを見て、天武天皇は感涙した。
「皇子たちよ!」
彼は皇子たちを招きよせると、六人まとめて抱きしめた。
鵜野讃良皇女ももらい泣きした。
「なんて美しい皇子たち……」
で、彼女も思わずこう誓ってしまったのである。
「私もこの皇子たちと仲良しです。絶対に争わないことを誓います。もし誓いを破ったら、どんなにひどい災いを受けてもかまいません」
※ 『日本書紀』では最初に天武天皇に誓ったのは草壁皇子になっていますが、筆者は大津皇子だったような気がしてなりません。