6.非情!持統天皇!!

ホーム>バックナンバー2012>6.非情!持統天皇(じとうてんのう)!

金正日は病死したのか?
1.感動!吉野会盟!!
2.昇天!天武天皇!!
3.略奪!石川郎女!!
4,看破!山辺皇女!!
5.密会!大伯皇女!!
6.非情!持統天皇!!

 大津皇子飛鳥に帰ったが、彼の行動は全て津守通によって監視されていた。
「天皇陛下。大津皇子が斎王と密会しました。行心なる新羅僧に謀反を勧められ、礪杵道作なる者と一緒に東国へ向かうつもりでしたが、斎王に諭されて断念して帰ってきた模様です」
 藤原不比等は笑った。
「斎王と密会ですと?これだけでもう十分な大罪ですな。逮捕して謀反未遂の件を問いただしましょう」
 が、持統天皇は乗り気ではなかった。
「密会といっても実の姉弟です。謀反の件も断念したならいいではありませんか。今回は許してあげましょう」
「陛下は甘いですな。思えば陛下のお父君
(天智天皇)も甘かった。陛下のお父君は謀反のうわさがあった先帝(天武天皇)を断罪しなかったがために、御子(大友皇子)の代で先帝に滅ぼされてしまったのです」
「……」
「後悔先に立たず。大津皇子に討たれてからでは、後悔すらできませんよ」
「……」
「陛下は太子を守るのではなかったのですか?陛下がそんな『甘ちゃん』では、とてもとても有能な大津から無能な太子を守ることはできませんね」
「黙りなさい!それは言いすぎです!」
「これはこれは、ちと口が滑りました」
 持統天皇は不機嫌になった。
 通が思い出したように言った。
「そういえば、大津皇子は東国へ行く前、川島皇子と話していました。川島は大津の親友です。彼なら大津皇子の謀反計画の詳細を知っているものかと」
 不比等持統天皇を見た。
 持統天皇は今度は「甘ちゃん」ではなかった。
「川島皇子と大津皇子を呼んで問いただしなさい!」
「ははっ!」
 通は平伏したが、不比等は一つ助言した。
「二人の尋問は別々に行いましょう。口裏を合わせられないように」

 まず、川島皇子が呼び出された。
 尋問は不比等がした。
大津皇子と何か話していたそうですね?」
「親友だから、話ぐらいするだろう」
「親友だから謀反を行うときも一緒にと?」
「そんなことは言ってない!」
大津皇子が東国を目指した理由は何ですか?」
「旅、だと」
「旅!ププ!不自然な理由ですねー。こちらの調べでは、新羅僧行心にたきつけられた後、なぜか突然美濃行きを決めたとか。壬申の乱を起こした先帝のように、東国へ兵を募りに行こうとしたのではありませんか?」
「……」
 川島皇子が黙り込むと、不比等は鎌
(かま)をかけた。
大津皇子は謀反の計画を白状しました」
「!」
「あなたもグルだと言ってました」
「!!」
「むしろ、主犯はあなたのほうだと。自分はあなたにだまされただけだと」
「!!!」
「あなたはかわいそうなお人だ。大津皇子はあなたを売ったのです!親友なんてそんなものですよ。追い詰められた人間は、自分かわいさに親友をも裏切るのです!あなたは大津皇子に裏切られたのだ!」
 川島皇子は崩れ落ちた。心の中の何かも崩壊したようであった。彼は抵抗した。叫び声をあげた。
「違う!私は無実だ!この私が謀反なんて考えるはずがない!考えていたとしたら、大津のほうだっ!」
 不比等はニヤリとした。

 次に大津皇子が召喚された。
「川島皇子が自白しました。あなたが謀反を計画していたと」
「何だと!」
「川島皇子はウソをつく人ですか?」
「いや、彼はウソはつかない」
「では、あなたが謀反を起こそうとしていたことも、本当だということですね?」
「それは違う!」
「では、川島皇子はウソつきですか?」
「違う違う!」
「真実は一つしかない!ウソつきは一人しかいない!あなたか川島皇子がウソをついているのです!」
「……」
「津守通に調べさせました。あなたには野心がないわけではない。あなたは皇位に未練を持っている……。あなたは生母が早死にしたことを恨んでいる……」
 大津皇子はフッと笑った。
「君はどうしても僕を謀反人に仕立て上げたいんだね?」
 不比等は否定しなかった。
「その通りです。私はあなたには死んでいただきたいのです。私だけではありません。女帝を始め多くの人々があなたの死を望んでいるのです。あなたが生きている限り、新羅は何度でもあなたを利用しようとするでしょう。新羅だけではありません。女帝や太子に反感を持つ人も、折りあるごとにあなたを祭り上げようとするでしょう。そうです!あなたの意思にかかわりなく、あなた自身が謀反の源になっているのです!あなたの存在自体が、あらゆる災いのものなってしまっているのです!お願いです!一生のお願いですから死んでください!あなたが生きている以上、都の人々はみな枕を高くして寝られないのですよっ!」
「いやだ!僕の存在が迷惑なのは分かっている!しかし僕は僕だ!僕が僕である限り、自己の破滅など認められるはずがない!唯一の例外があるとすれば、女帝に命じられた場合だけだ!女帝は僕のおばであり、継母であり、天皇である!女帝は僕の母が死んでから、本当の母親のように優しくしてくれた!もし、その母に『死んでくれ』と言われたら、僕は死ぬしかないだろう!天皇の命令には背けるはずがないだろう!」
 不比等は勝ち誇った。
「分かりました。皇子の望みのままにして差し上げましょう」

 朱鳥元年(686)十月二日、大津皇子は謀反の疑いで逮捕された。
 一味として行心・礪杵道作・八口音橿
(やくちのおとかし)・伊吉博徳(いきのはかとこ)・中臣臣麻呂(なかとみのおみまろ)・巨勢多夜須(こせのたやす)ら三十余人もしょっぴかれた。

 翌三日、謀反人たちの判決が出た。
 礪杵道作は伊豆へ、行心は飛騨の寺へ流されることなった。
 その他大勢はみな許されたが、主犯とされた大津皇子だけが死を賜った。
 持統天皇自らが哀願したのである。
「大津。後生です。草壁のために死んでください」
 大津皇子は断ることはできなかった。
「謹んでお受けいたします。母上」
 持統天皇は泣いた。
 大津皇子は泣かずに顔を背けた。

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磐余池
飛鳥京[1][2][3][4][5][6][7]

 大津皇子は訳語田の自宅での自害を認められた。
 飛鳥浄御原宮から訳語田へ向かう途中に磐余池
(いわれのいけ。奈良県橿原市)がある。
 平成二十三年(2011)十二月に堤跡が発見されたその地のほとりで、大津皇子は辞世の句を詠んだという。

  ももづたふ磐余の池に鳴く鴨(かも)を今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ

 自宅に着くと、大津皇子は自ら首をくくって死んだ。享年二十四。
 山辺皇女は夫の遺体にすがりついて泣きわめいた。
「死ぬまで一緒って言ったじゃない!」 
 夫の遺体が運び出されると、彼女は髪を振り乱し、はだしで追いかけてきた。
「いやー!連れて行かないでー!死んでからも一緒にいるのーっ!」
 彼女はその場で殉死した。享年不明。
 見る者はみなすすり泣いたという。

 十一月十六日、弟の罪によって大伯皇女は斎王を解任され、飛鳥へ帰ってきた。
 そのときの歌も『万葉集』にある。

  神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに

  見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

 後に大津皇子二上山(ふたかみやま・にじょうさん。奈良県葛城市大阪府太子町)に改葬されたが、その時の大伯皇女の歌も残っている。

  うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我れ見む

  磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見ずべき君が在りと言はなくに  

 持統天皇三年(689)四月十三日、持統天皇が命を懸けて守ろうとした草壁皇子が病死した。享年二十八。
 持統天皇は泣き叫んだ。
「どうして?どうして草壁が死んでしまうのよっ!朕は継子を殺してまで彼を守ろうとしたのにっ!どうしてなのよーっ!?」
 ふと、持統天皇は昔、吉野の会盟で誓ったことを思い出した。
『私もこの皇子たちと仲良しです。絶対に争わないことを誓います。もし誓いを破ったら、どんなにひどい災いを受けてもかまいません』

[2011年12月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ 鵜野讃良皇女の「鵜」は入力不可のための代字です。正しくは「盧」と「鳥」を一字にした漢字です。

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