1.禁断の果実 | ||||||||||||||
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崇峻天皇 PROFILE | |
【生没年】 | ?-592 |
【別 名】 | 泊瀬部皇子・長谷部若雀命 |
【出 身】 | 大倭国?(奈良県) |
【本 拠】 | 倉椅柴垣宮=倉梯宮(奈良県桜井市) |
【職 業】 | 皇族 |
【役 職】 | 大王(587-592) |
【 父 】 | 欽明天皇(継体天皇皇子) |
【 母 】 | 蘇我小姉君(蘇我稲目女) |
【お じ】 | 蘇我馬子・安閑天皇・宣化天皇ら |
【お ば】 | 蘇我堅塩媛(蘇我稲目女)ら |
【兄 弟】 | 敏達天皇・推古天皇(額田部皇女)・用明天皇 ・穴穂部皇子・箭田珠勝大兄皇子・石上皇子 ・倉皇子・臘嘴鳥皇子・椀子皇子・石上部皇子 ・山背皇子・桜井皇子・橘本稚皇子・茨城皇子 ・葛城皇子・宅部皇子(宣化天皇皇子とも) ・笠縫皇女・磐隈皇女・大宅皇女・大伴皇女 ・肩野皇女・舎人皇女・穴穂部皇女 |
【 妻 】 | 大伴小手子・蘇我河上娘 |
【 子 】 | 蜂子皇子・錦代皇女 |
【従兄弟】 | 厩戸皇子(聖徳太子)・蘇我蝦夷ら |
【仇 敵】 | 蘇我馬子・東漢駒 |
【墓 地】 | 倉梯岡陵(奈良県桜井市) |
崇峻天皇は姉が好きだった。
姉弟としてではなく、女性として彼女を愛していた。
姉とは額田部皇女、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)、後に日本初の女帝となる推古天皇である。
「何か問題でも?」
問題なかった。
当時――、つまり飛鳥時代は、母が違えば姉弟でも兄妹でも結婚できたわけである。姉弟の父は欽明天皇であるが、額田部皇女の母は蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ。蘇我稲目の娘)、崇峻天皇の母は蘇我小姉君(おあねぎみ・こあねぎみ。堅塩媛の妹)であった(「蘇我氏系図」参照)。
現に額田部皇女は異母兄である敏達(びだつ)天皇と結婚していた。敏達天皇の母は石姫皇女(いしひめのおうじょ。宣化天皇皇女)である(「天皇家系図」参照)。
額田部皇女の結婚を聞かされたとき、崇峻天皇はショックであった。当時は大王即位前なので泊瀬部皇子といったが、以降、崇峻天皇で統一する。
(ウウ……。ひどいよ姉ちゃ〜ん)
崇峻天皇は泣いた。毎日毎日泣き暮らした。
夫婦の仲がよかったのも、崇峻天皇にはおもしろくなかった。
額田部皇女は夫との間に二男五女も産みよった。
敏達天皇十四年(585)、敏達天皇が死んだ。享年四十八。
次の大王には額田部皇女の同母弟・用明(ようめい)天皇がなった。
(ってことは……)
崇峻天皇は泣き止んだ。
悲しんでいる額田部皇女を見て、ひそかに喜んだ。
(姉ちゃんは未亡人〜♪)
悲しんでいるふりをして、姉を慰めた。
「元気出しなよっ」
崇峻天皇は心中だけでこう続けた。
(オットなんかいなくたって、オトートがいるじゃないか〜)
でも、そうは問屋がおろさなかった。
兄弟というものは似るものなのか、崇峻天皇の同母兄・穴穂部(あなほべ)皇子が猛然と額田部皇女にアタックし始めたのである。
「額田部、好きだー!今まで隠していたが、ずっとずっと好きだったんだー!今までは不倫になるから我慢していたが、これからはもう自由だー!」
オクテの崇峻天皇は兄の剣幕に押されて遠慮するしかなかった。
崇峻天皇には勝算があった。
(姉ちゃんは穴穂部兄ちゃんを嫌っている)
その通りであった。
穴穂部皇子は額田部皇女の好みではないらしかった。
(姉ちゃんが本当に好きなのは、このボクだ。エヘッ!)
それは違っていた。
額田部皇女は崇峻天皇のことは嫌いではなかったが、男としては見ていなかった。眼中になかったのである。
ただ、穴穂簿皇子嫌悪のあてつけとしてかわいがってくれたため、崇峻天皇はおおいに勘違いしていたのであった。
穴穂部皇子は怒り狂った。
「額田部を愛しているのは弟じゃない!このオレなんだー!こんなに愛しているのに、どーしてどーして受け入れてくれないんだーっ!」
あせった穴穂部皇子は強硬手段に出た。
額田部皇女の寝所に押し入ろうとしたのである。
が、敏達天皇の旧近臣・三輪逆(みわのさかう・さかし)に阻止された。
「何してるんですか?」
「何って、こんなとこまで忍び込んですることなんて、決まっているじゃないかー!」
「お帰りください!大后(額田部皇女)はあなたのことを受け付けておりません」
「どうしてだー!?」
「ズバリ、嫌いだからでしょう」
「なんだとー!ウワーッ!!」
穴穂部皇子はあきらめが悪かった。逆を殺してまで思いを遂げようとした。
「逆は反逆者だ!逆を討てー!」
穴穂部皇子は軍事長官たる大連・物部守屋を味方に付けた。政務長官たる大臣・蘇我馬子は、これを黙認した。
「弟よ、おまえもグルだ」
崇峻天皇も誘われてしまった。兄には逆らえず、しぶしぶついていった。
逆は危険を察知して逃げた。額田部皇女邸・海石榴宮(つばいちのみや。奈良県桜井市)にかくまわれた。
が、密告があり、見つかって捕まってしまった。
「ぶっ殺す!」
穴穂部皇子は自ら剣を抜いて振り上げた。
「やめてー!殺さないでー!」
額田部皇女は泣いて命乞いをした。
いとしの女の涙を見ちまった崇峻天皇も、逆を殺すことには反対した。
「ダメだよ〜。逆は前大王(敏達天皇)の功臣じゃないか〜」
が、穴穂部皇子は許さなかった。
「それがどうした」
ブッスリ!
かまわず逆を殺してしまったのである。
額田部皇女は穴穂部皇子をうらんだ。
「許さない!絶対に許さないっ!」
馬子は黙認しておきながら、わざとらしく憤った。
「穴穂部皇子や守屋の悪行は万死に値しますな」
用明天皇二年(587)四月、用明天皇が四十八歳で病死(天然痘?)すると、六月に穴穂部皇子を立てる物部守屋と額田部皇女を立てる蘇我馬子との間で戦が起こった。
いわゆる「丁未の乱(ていびのらん。丁未の変。「イヌ味」参照)」である。
結果は馬子側の完勝であった。
穴穂部皇子は殺され、翌月には守屋も敗死した。
崇峻天皇はというと、兄を裏切り、愛する額田部皇女がいる馬子側に味方していたため、命拾いした。
それどころか、次の大王に推され、即位しちまったのである。