2.深窓の情事 | ||||||||||||||
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用明天皇二年(587)八月、額田部皇女や蘇我馬子に推薦され、崇峻天皇が倉椅柴垣宮(くらはしのしばがきのみや。倉梯宮。桜井市)で伝三十二代大王として即位した。
皇族の系図『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく・しょううんろく。洞院満季ら編)』などには、なぜか即位時の年齢が六十九歳になっているが、実際は二十代後半〜三十代前半と思われる。
翌崇峻天皇元年(588)三月、崇峻天皇は即位前からの唯一の妻・大伴小手子(おおとものこてこ・おてこ・さてこ)を妃とした。彼女は蜂子皇子(はちこのおうじ)と錦代皇女(にしきてのおうじょ)を産んでいた(「天皇家系図」参照)。
馬子は不思議がった。
「はて?唯一の奥様が妃ですか。大后はどなたになさいますかな?」
崇峻天皇は当然のように言った。
「やっぱり大后は蘇我系の娘じゃないとねー」
馬子はウホホホ喜んだ。
「それはそれはよいお心がけで。私めに娘を差し出せと?」
「ううん。前々から心に決めた女がいる。大后はその女以外にありえないよー」
「はて?どなたでございましょうか?」
「額田部皇女」
馬子の強面笑顔が止まった。心なしか紅潮した。
「ダメですな。彼女は前大王の大后ではありませんか」
「二代の大王の大后になった前例がないわけじゃないよ」
確かに履中天皇(りちゅうてんのう)の大后・草香幡梭皇女(くさかのはたひのおうじょ)は、雄略天皇の大后にもなっていた(この二人には別人説もある。「天皇家系図」「震災味」参照)。
が、馬子は許さなかった。
「ダメだ!たとえ私が許しても、諸臣が許さないでしょう!第一、大后は大王さまのような軽〜い弱〜い薄っぺら〜い男は好みではありません」
「失敬な!じゃあ、どんな男が好みだって言うんだよ?」
「それはもう、重厚な、いぶし銀な、野心に燃えた脂ぎった男の中の男の中の男でしょう」
馬子はフッフッと意味ありげに笑った。
崇峻天皇は腹が立った。
「やだ!朕はあきらめないよ」
馬子の声が低くなった。
「つまり、あんたも穴穂部のようにぶっ殺されたいと?」
崇峻天皇はビビッてしまった。
馬子がどすを利かせて吐き捨てた。
「あんたにはわしのかわいい娘をやるっていっているんだ。ありがたくおとなしく頂戴しておけばいいのだバカヤロー!」
しばらくして、馬子は娘を差し向けてきた。
蘇我河上娘(かわかみのいらつめ)――。
ダークな馬子とは似ても似つかぬキラキラ清純美女であった。
「なんだこんなもーん!」
悔しかったが、崇峻天皇は屈服した。そして、河上娘にのめりこんでしまった。
古妻・大伴小手子が嫉妬(しっと)した。
「政略で結婚した娘が、そんなにかわいーんですか?」
「どーせ君との結婚だって政略じゃないか」
小手子は物部氏と並ぶ武門の名家・大伴糠手(ぬかて・あらて)の娘であった(「大伴氏系図」参照)。
大伴氏は名家とはいえ、大伴金村失脚以降は落ちぶれ(「国境味」参照)、蘇我氏の番頭みたいに成り果てていたが……。
「――君だって他の条件が同じなら、美しいほうを選ぶだろう?」
小手子はブサイクであった。
その子・蜂子皇子は、もっと醜かった。そのため彼は後に都を離れて放浪し、羽黒山(はぐろさん。山形県鶴岡市・庄内町)の開祖となるのである。
「ひどい……」
小手子は崇峻天皇を憎んだ。
崇峻天皇は額田部皇女のことをあきらめたわけではなかった。
しばらくは河上娘におぼれていた崇峻天皇だったが、まもなく我に返った。
(そうだった!朕が求めているのはこんなんじゃない!額田部姉ちゃんだったんだー!)
崇峻天皇の姉への思いは日増しに増し、ついに暴発した。
額田部皇女の寝所に忍び込んだのである。
警備はなぜかテキトーであった。やすやすと姉の寝所に忍び入ることができた。
(どういうことだ?)
どうでもよかった。いとしの額田部皇女にさえ逢えれば、それでよかった。
衝立(ついたて)の向こうに姉の顔が見えた。
(わーい!姉ちゃ〜ん)
崇峻天皇は獲物を見つけたキツネのように、ヒタヒタと寝台に忍び寄った。
が、すぐに足が止まってしまった。
「バカなヤツだ」
そんな男の声が寝台から漏れ聞こえてきたからである。
「……!?」
そうである。
額田部皇女の寝所には「先客」がいたのであった。
(どういうことだ?姉ちゃんは未亡人じゃないか!? なのに、なのに、いったい誰がいるってんだ……?)
崇峻天皇の心はざわめいた。
じりじりりと少しずつ移動して衝立の向こうをのぞいてみた。
男の頭が見えた。
脂ぎった額が見えた。
太い眉毛(まゆげ)も見えてきた。
(あ!)
崇峻天皇はそれに見覚えがあった。あるどころではなかった。
(ウッ、ウッ、うまっこー!!)
危うく声を発しかけた。崇峻天皇は口を押さえ、びっくりして引っ込んだ。
(ま、まさか馬子が、姉ちゃんと同衾(どうきん)!おじとめいの関係なのに、どーなってるんだぁー!?)
崇峻天皇は混乱した。
馬子の声が続いた。
「今頃、泊瀬部(崇峻天皇)は河上娘を腕枕だ」
「こんなふうに〜」
額田部皇女の楽しそうな笑い声も聞こえてきた。崇峻天皇はショックであった。
馬子の次なる言葉はさらにショックであった。
「フッ!わしの娘ではなく、どこの馬の骨ともわからぬ河上娘と。ハハッ!いくらわしには娘がたくさんいるといっても、あの程度の男に実の娘をくれてやるわけがないではないか」
(なっ、なんだってぇー!!)
「ヤツの治世は長くない。その後のわしとおまえの子の治世に期待しよう」
「そうね、あなた」
崇峻天皇は仰天の連続であった。
(わしとおまえの子……?って、だれよぉーっ!?)
疑問はすぐに額田部皇女が答えてくれた。
「厩戸は賢い子よ。アンナノとは器が違うわ」
(うまやどぉぉーーー!!!)
厩戸皇子――、いわゆる聖徳太子である。
(厩戸が姉ちゃんと馬子の子!! ありゃりゃ!どーなってんの?どーゆーこっちゃぁーー!!)
馬子は笑った。
「厩戸は今は前大王(用明天皇)の皇子ということになっているが、いずれ本当のことを公表する時が来るであろう。あいつが即位した暁に――」
「あなた」
「おまえ」
「あなた」
「おまえ」
(わわわ……)
崇峻天皇は逃げ出そうとした。
ガチャン!
(あ……)
なんか香炉(こうろ)みたいなのを落としてしまった。
馬子が気づいた。声を荒らげた。
「誰だ?」
崇峻天皇の恐怖は頂点に達した。
「誰でもありましぇーん!」
崇峻天皇は逃げた。後ろも見ずに必死になって逃走した。
馬子は追ってこなかった。警備も誰も追ってこなかった。
額田部皇女は馬子に抱きついた。
「だれ?クセモノ?」
馬子は笑った。
「いや、声でわかった」
「ヒミツ、聞かれた?」
「聞かれたとしても、ヤツが話せるわけがないであろう」
「それでも話そうとしたら?」
「その時は消えてもらうしかあるまい」
「消して」
「ホホッ!おまえも言うようになったの〜う」
「じゃなくて、明かりを消して」