◆ 長徳元年(995)の場合

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炭そ菌より恐ろしい天然痘の恐怖
★ 天平九年(737)の場合
★ 長徳元年(995)の場合

長徳元年は平安時代である。この年初めの閣僚は以下のとおり。

この下に参議が八人いるが、数が多いため省略した。納言以上の閣僚は、上記の十四人である。
 一見して分かるように、藤原氏の数が圧倒的に多い。康保四年(967)に実頼
(さねより)関白になって以降、摂政・関白は常に置かれるようになり、藤原北家が政権を独占するようになっていた。長徳元年は、かの藤原道長の長兄・道隆(みちたか)の時代であり、摂関政治全盛期前夜といったところである。

● 藤原道隆政権閣僚 ●
(995当時)
官 職 官 位 氏 名 年 齢
関 白 正二位 藤原道隆 43歳
左大臣 正二位 源 重信 74歳
右大臣  正二位 藤原道兼 35歳
内大臣 正三位 藤原伊周 22歳
大納言 正二位 藤原朝光 45歳
大納言 正二位 藤原済時 55歳
権大納言 従二位 藤原道長 30歳
権大納言 正三位 藤原道頼 25歳
中納言  従二位 藤原顕光 61歳
中納言  従二位 源 保光 72歳
中納言 正三位 藤原公季 39歳
権中納言 正三位 源 伊陟 59歳
権中納言 正三位 源 時中 54歳
権中納言 正三位  藤原懐忠 61歳

今回も、わざわいは西からやって来た。
 正暦四年(993)の冬頃から九州で疫病
(おそらく天然痘だが、「はしか」説もある)が流行し始め、翌正暦五年(994)には全国規模ではやり出した。
 この年、疫病のため平安京では半分以上の人々が死に、五位以上の役人も六十七人が死んだいうが、参議以上では誰も死者は出なかった。
「高貴な方は死なないらしい」
 人々はささやきあったが、そのジンクスは翌長徳元年(995)に破られた。

二月二十六日、持病が悪化した藤原道隆は、時の天皇・一条(いちじょう)天皇に関白の辞表を提出したが、天皇はこれを許さなかった。道隆の持病というのは天然痘ではなく、糖尿病らしい。彼は当時から知られた大酒のみで、そのため身体を壊していたらしい。辞表を拒否されても、道隆は出勤することができないほどの重病である。道長ら関係図
「どうやらおれも長くないようだ…」
 それを悟った道隆は、自分の死後のことを考えた。
「自分の死後、権力を握る者はだれか……?」
 考えなくとも分かっていた。
 自分のすぐ下の弟で、現在のナンバースリーである藤原道兼
(みちかね)である。
 ナンバーツーの源重信
(みなもとのしげのぶ)は穏健な老人で、しかも藤原氏ではないので、摂政関白に就くことはない。それに比べて道兼は藤原氏である。切れ者で、かつては天皇廃位も画策実行したこともある策士である(「安倍味」参照)。自分が死ねば、必ずや動いてくるであろう。そして、関白を握ってしまうであろう。そうなっては、自分の息子、伊周(これちか)・道頼(みちより)・隆家(たかいえ)らに将来はない。関白が回ってくることは永久にありえない。関白は道兼の子・兼隆(かねたか)の子孫が代々受け継いでゆくことになってしまうのだ……。
 道隆は息子たちかわいさに、弟が憎かった。道兼を関白にしない方法――。それは自分の生前のうちに伊周に関白を譲っておくことだった。

「なにとぞ我が関白を伊周に…」
 道隆は一条天皇に懇願した。一条天皇は渋った。
「伊周はまだ二十二歳じゃないか」
 関白は天皇を補佐する役目である。一条天皇は時に十六歳だったが、自分とたいして年が変わらない二十二歳の若造なんかに後見されたくなかった。それでも、あまりに道隆がうるさく頼むので、道隆の病中に限り、特例として「内覧」だけを許可した。「内覧」は重要政務文書をのぞき見できる権限のある役目で、関白に準じる地位である。それても道隆は不服だった。「内覧」は正式な地位ではない。正式に自分の全権を息子に譲り渡したことにはならないのである。

 そうこうしているうちに閣僚の中で初めて天然痘による犠牲者が出た。
 三月に入ると、ナンバーファイブ・大納言の藤原朝光
(ともみつ)が死んだのである。朝光は中納言顕光(あきみつ)の弟で、道隆・道兼らの従兄弟である。
「やっぱり高貴な方でも死ぬんだ」
 閣僚たちはどよめき、おののいた。

 四月三日、道隆は再び自分の関白を伊周に譲ってもらえるよう、一条天皇に懇願したが、
「いやだね」
 と、一条天皇は頑固にこれを突っぱねた。
 どうやら彼にはすでに策士道兼の「まいない」でも回っていたのであろう。青年天皇への「まいない」とはなんであろう? 案外「なまもの」かも知れない。一条天皇には道隆の娘・定子
(ていし)が嫁いでいるが、道兼の娘・尊子(そんし)も嫁いでいる。
 道隆は消沈し、三日後に出家、四月十日に亡くなってしまった。彼の死因は糖尿病の悪化によるものであろうが、最終的には天然痘にかかっていたのかもしれない。

 道隆の死に喜んだのは道兼である。
「ぐははっ! 兄貴め、とうとう死んじまいよった!これからはオレの天下だ!」
 四月二十七日、道兼は伊周を押しのけて関白に就任した。
 しかし、そのときすでに道兼は天然痘にかかっていた。五月八日、道兼は後継者を指名することもなく死んでしまった。世に「七日関白」といわれている。それより少し前、大納言藤原済時
(すみとき)も逝(い)った。

「汚い手を使うから、バチが当たったんだよ」
 道兼の死に喜んだのは、彼に関白を奪われた伊周である。
「ボクは今度こそ関白になれるんだ。道兼おじさんがいなけりゃこっちのもんさ。今度こそ先手を打って関白になってやろう」
 伊周は一条天皇のところに行った。そして、
「道兼叔父さんが死んで、関白が空いちゃったんですけど……」
 と、遠慮がちに、でも、いかにもそれが欲しそうに一条天皇にすり寄った。
 でも、一条天皇はつれなかった。
「そんなもの、空いてないよ。もう、次の予約が詰まっているんだ」
「次の予約?」
 伊周は首をかしげた。そんなヤツ、いただろうか?天然痘で納言以上の閣僚は八人も死んでしまっている。自分より上の位で残っている人なんて、一人もいないはずだった。
「この人だよ」
 一条天皇が紹介した。
「やあ!」
 あいさつして出てきたのは、叔父の道長だった。明るいだけがとりえの、ほかに何のとりえもないと思っていた最年少の叔父の道長だった。
「なんで……!?」
 伊周は怒りたかった。道長と比べるんだったら、自分のほうがよっぽどマシじゃないか!
 しかし、一条天皇は言った。
「お母さんが『道長にしなさい』ってうるさいから仕方ないよ」
 一条天皇の母は、藤原詮子
(せんし)である。道長の姉で、道長と仲が良かった。と、いうことは、勝負はもうついていた。まず、道長は、伊周から「内覧」の権限を奪った。

 以後しばらく、天然痘の猛威は続いた。五月には、道兼のほかに左大臣源重信、中納言源保光(やすみつ)、中納言源伊陟(これおし)も死んでいる。六月には道隆の子で伊周の弟の道頼も死んだ。伊周は有力な味方を失ってしまったのである。

 六月十九日、道長は内大臣伊周を超えて右大臣に昇進した。何しろ道長は、姉を介して天皇を味方につけてしまっているのである。もう怖いものは何もなかった。
「腹立つ!」
 伊周はキレた。もう一人の弟の隆家
(たかいえ)と組んで、よりによって前の天皇、花山法皇(かざんほうおう)の輿を弓矢で襲撃したのである。

「許せませんなぁ!」
 道長は怒った。でも、内心笑っていた。いい口実だった。
 翌長徳二年(996)四月二十四日、道長は伊周・隆家兄弟を政界から追放した
(「満月味」参照)。以後、道長が権勢を極めたことは、みなさまも御承知のとおりである。

[2001年10月末日執筆]
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