2.対陣! 川中島! | ||||||||||||||
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川中島とは、信濃川の支流・千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)の中州とその近辺、いわゆる善光寺平(ぜんこうじだいら。長野盆地)のことである。
現在の長野県北部、長野市周辺に当たり、当時この地では、信濃全土を征服しようとする武田信玄と、それを阻止しようとする上杉政虎との間で激しい争奪戦が繰り広げられていた。
武田信玄 PROFILE | |
【生没年】 | 1521-1573 |
【別 名】 | 勝千代・武田晴信 |
【出 身】 | 甲斐国積翠寺(山梨県甲府市) |
【本 拠】 | 甲斐躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市) |
【職 業】 | 戦国大名(甲斐等国主) |
【役 職】 | 甲斐守護(1541-1573) ・信濃守・大膳大夫 |
【位 階】 | 従四位下 |
【 父 】 | 武田信虎 |
【 母 】 | 大井氏 |
【 師 】 | 快川紹喜ら |
【兄 弟】 | 武田信繁・信廉・信実・定恵院 ・南松院・祢々・亀・菊ら |
【義兄弟】 | 今川義元・穴山信友・諏訪頼重 ・大井忠成ら |
【 妻 】 | 三条公条娘・諏訪頼重娘ら |
【 子 】 | 武田義信・勝頼・松ら |
【盟 友】 | 今川義元・北条氏康ら |
【部 下】 | 馬場信房(信春)・板垣信形・飯富虎昌 ・春日虎綱(高坂昌信)・真田幸隆・山県昌景・ ・穴山信君・秋山虎繁(信友)・山本晴幸ら |
【仇 敵】 | 上杉謙信・村上義清・織田信長ら |
【墓 地】 | 恵林寺(山梨県塩山市) ・金剛峰寺(和歌山県高野町) |
【霊 地】 | 武田神社(山梨県甲府市) |
この年の三月、信玄は政虎(当時は長尾景虎)が北条征伐に向かったスキに川中島に進出、千曲川の東に海津城(かいづじょう。松代城。長野市)を築き、股肱(ここう)の臣・高坂昌信(こうさかまさのぶ。春日虎綱。弾正忠)を詰めておいた。
「政虎、春日山を発ちました。総勢約一万三千!」
忍者の報告を受けた昌信は、すぐさま狼煙(のろし)を上げた。
信玄は領内各所に狼煙台を設けていた。海津城〜甲府間の狼煙は、わずか二時間半で伝達されたという。
「来たか政虎」
八月十八日、信玄も川中島に向かった。甲府出発時は一万人だったが、途中で多くの部隊が合流、一万八千人に膨れ上がった。これに海津城の守兵二千人を加えると、武田軍の総勢は二万。
一方、川中島に先着した政虎は、千曲川を南に渡り、川中島の南にある妻女山(さいじょざん)に布陣した。海津城の西南西にある標高五百四十八メートルの山である。
「政虎、妻女山に布陣しました!」
川中島に向かう信玄に、忍者が伝えた。
信玄は驚いた。
「妻女山だと!?」
信玄は、海津城に入ろうと考えていたことであろう。
が、そうするには政虎のいる妻女山の前を通らなければならない。前を通ればどういうことになるか?
攻めかかってくるに決まっていた。
信玄の愛読書『孫子(そんし)』にもあるように、軍勢はより高いところにいるほうが有利である。
ちなみに有名な武田軍の軍旗「風林火山」も『孫子』の一説から採っている。
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第四回川中島の戦い対陣図 |
其(そ)の疾(はや)きこと風の如(ごと)く
其の徐(しずか)なること林の如く
侵掠(しんりゃく)すること火の如く
動かざること山の如し
「それなら」
信玄は作戦を変更した。
海津城に入るのをやめ、千曲川を北に渡り、川中島の西にある茶臼山(ちゃうすやま)に陣取ったのである。
茶臼山は妻女山からは北西にあり、標高は七百三十メートルと妻女山より高い。これで孫子的には、武田軍は優位に立った。
「どんなものだ」
さらに信玄は、より政虎に圧力をかけるため、茶臼山〜海津城間に軍勢を配置し、妻女山の上杉軍を完全に越後から遮断した。
「ちょっと、まずいんじゃないの〜」
逃げ場を失った上杉軍は動揺したが、政虎は一喝した。
「うろたえるな!
我に考えがある!」
政虎は考えていた。
(信玄は先に動く。必ず動く。動けばそこにスキが出る。そこを一気に攻撃するのだ!)
政虎はつぶやいた。
「始めは処女の如く。後には脱兎(だっと)の如し」
『孫子』にある有名な言葉である。実は政虎も『孫子』を愛読していたのである。