7.突撃! 最後の手段! | ||||||||||||||
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戦いは上杉軍先鋒・柿崎景家(かきざきかげいえ。越後柿崎城主)隊が武田軍左翼・武田信繁隊を猛攻して始まった。
柿崎は味方を鼓舞した。
「鶴翼は大軍に見せかけるためのハッタリだ! 敵は我が軍より小勢ぞ! 一気にもみつぶせ!」
上杉軍の猛攻はすさまじかった。
十二段に構えた武田軍の「鶴翼の陣」は九段まで突破され、武田信玄本陣には次々と悲報が伝えられた。
「典厩(てんきゅう)信繁様、討たれました!」
「諸角豊後(もろずみぶんご。虎定)様も討死!」
「山本勘助様、討死ー!」
「御嫡子義信様、負傷ー!」
それでも信玄は、身じろぎ一つせず、どっしり床几(しょうぎ)に腰をおろして戦況を見守っていた。
時には味方の伝達者だけではなく、敵の足軽も本陣に踊り入ってきた。
「やた! 信玄入道ですね! 覚悟〜!」
ブス!
「あぁあぁ〜」
すかさず信玄の旗本が長槍(ながやり)を突き出して足軽を倒した。
敵がすぐ近くに接近しても、信玄は決して刀を抜こうとしなかった。
「大将は軍を指揮する者である。刀を抜く者ではない」
彼が尊敬する禅僧・快川紹喜(かいせんじょうき・しょうき。恵林寺住職)に教えられていたためだと伝えられている。
一方、時が過ぎるにつれて、上杉政虎はあせり始めた。
「信玄の首はまだか?」
「まだ届きません」
「それ以前に他の軍隊であれば、これだけ攻撃を加えればとうに敗走しているはずだが……。何がヤツらをここまで持ちこたえさせているのか……」
考えなくても分かっていた。
妻女山に向かった別働隊一万二千人の存在である。
「別働隊が来るまでがんばれ!」
武田軍はその希望があるからこそ、踏みとどまっているのであろう。
「させるか! 別働隊が来るまでに何が何でも信玄を討つのだ!」
誰がどう考えても、ここに敵の新手一万二千が現れれば、形勢逆転は目に見えている。
(このままでは、敵の作戦を看破した意味もなくなってしまう!)
政虎は歯ぎしりした。
かなたに信玄の本陣が見えた。それは、案外近くに見えた。乱戦のため、いつの間にか接近してしまっていたのであろう。
政虎は愛刀・小豆長光(あずきおさみつ)を握り締めた。
そして、彼は馬に飛び乗った。彼は乗馬の名手でもあった。
(こうなったら、最後の手段だ)
その頃、信玄は不思議な感覚に襲われていた。
目の前で血みどろの激戦が繰り広げられているにもかかわらず、なぜか人事のようで、自分は全く違う世界にいるような穏やかな感じがし始めたのである。
(負け戦から逃避したいのであろうか?)
信玄は空を見上げた。
曇っていた雲の透き間から、日の光が差し込んできた。地面から舞い上がる砂塵(さじん)が光に照らされてキラキラ金色に舞っていた。
(美しい……)
その中から突然、金色の騎馬武者が現れた。
萌黄(もえぎ)色の陣羽織を身にまとい、月毛色の馬にまたがった、颯爽(さっそう)とした若い騎馬武者である。騎馬武者はこちらに猛進してきたが、信玄にはそれがスローモーションのように見えた。
騎馬武者は三尺ほどの刀を振りかざしていた。その刀が突然、信玄の眼前で鋭くきらめき、弧を描いた。
ガッ!
信玄はとっさにその流線を軍配で受け止めた。
うまくかわしたようであったが、腕からパァッと細かな血しぶきが上がった。
騎馬武者は馬を翻すと、間髪入れず振り向きざまに二太刀目を繰り出す。
バシッ!
今度は信玄、その切っ先を軍配でたたき払った。
そのとき、近くで戦っていた武田軍の足軽大将・原胤歳(はらたねとし。大隅守)が騎馬武者に気付いた。
「あ、貴様! いつの間に!」
慌てて駆け戻ってきて、
「やあー!」
持っていた長槍を突き出したが、騎馬武者はこれをかわし、渾身(こんしん)の力をこめて三太刀目を信玄に浴びせた。
ギン!
またしても信玄、踏ん張ってこれを受け止め、騎馬武者をにらみつけた。
「クソッ!」
原は槍を構え直してもう一突き。
騎馬武者、再びよけたものの、槍先が馬の足にしたたかに当たり、馬はびっくり仰天、棒立ちなってバニクったため、あきらめて引き上げていった。
「お館様、大丈夫ですか?」
「ああ、何とか」
「それにしても相当名のありそうな武将なのに、名乗りも上げずにいきなり襲い掛かるなんて、いったい何者だったんでしょうか?」
信玄が苦笑して言った。
「フフッ。政虎だったりして」
このとき、信玄は腕と肩の二か所に傷を負い、軍配には七か所の傷があったという。
この戦いで政虎と信玄の一騎討ちがあったかどうかは定かではない。
信玄を襲ったのは政虎ではなく、その配下・荒川長実(あらかわながざね。伊豆守)だったという説があるし、政虎が襲ったのは信玄の影武者だったという説もある。
いずれにしても、江戸時代の儒学者・頼山陽(らいさんよう)の次の詩が、二人の一騎討ちを有名にした。
鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河をわたる
暁に見る千兵の大牙(たいが)をようするを
遺恨なり十年一剣をみがく
流星光底長蛇を逸す
巳の刻(午前十時頃)、形勢は逆転した。
馬場・飯富・高坂ら別働隊一万二千がついに八幡原に到着したのである。
「妻女山には誰もいなかったじゃないかー!
よくもだましやがったなー!」
「もう怒った!
こうなったら今までの分も暴れてやるー!」
「みんな残らずぶった斬(ぎ)ってやるう〜!」
戦国史上最強と呼ばれていた武田騎馬隊が、大地揺らし土煙上げ怒り狂い凶器振り回し巨大な津波のように驀進(ばくしん)してくるさまは、約四時間の激闘で疲労困憊(こんぱい)していた上杉軍には恐怖この上なかったであろう。
「退けー!」
たまらず政虎は、あたふたしていた上杉軍に撤退を指示した。
でも、欲求不満の武田軍は、飢えたオオカミのように猛然と追ってくる。
「待ちやがれ!
コラッ!」
「逃がすもんか、コノヤロー!」
「全然仕返しし足りないんだよー!」
政虎は逃げた。
殿(しんがり)を甘粕景持(あまかすかげもち。近江守)に任せ、愛馬も放り出して一目散に逃走した。
この戦いでの上杉軍の死者は三千五百人(全軍の26.9%)、負傷者は一万人(76.9%)と伝えられている。
一方の武田軍の死者は四千五百人(22.5%)、負傷者は一万二千人(60%)である。
つまり、死傷者の数では上杉軍の勝ちになり、死傷者の割合では武田軍の勝ちになるわけである。
が、もうほんの少しでも政虎の撤退が遅れていれば、上杉軍は壊滅し、その後の戦国地図も大きく変わっていたことであろう。
まさに政虎の撤退は、歴史をも変えたのである。
[2004年12月末日執筆]
参考文献はコチラ
※
両軍の兵数には異説が多くあります。
※ また、死傷者数についても、他の戦いに比べて余りに割合が多いので、疑わしいかも知れません。
※ また、本当に妻女山(上杉軍)と茶臼山(武田軍)で両軍が半月余りも対陣したかどうかも定かではありません。