3.泉 親衡 | ||||||||||||||
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阿静房安念は金窪行親と安東忠家に、自分が知っている仲間たちの名前を洗いざらい明かした。
それを二人は北条義時に報告したのである。
「首謀者は信濃の御家人・泉親衡(いずみちかひら)。一味は総勢三百人以上」
「その中には、和田義直(わだよしなお)、和田義重(よししげ)、和田胤長(たねなが)といった名前もありました」
「ほう」
義時はニヤリとした。
義直と義重は侍所別当・和田義盛の子で、胤長は義盛の甥(おい)であった(「和田氏系図」参照)。
「それから前将軍(源頼家)の子・千寿丸(せんじゅまる。千手・栄実)様の館にも出入りし、いろいろと話を聞いていたとか(「清和源氏系図」参照)」
義時は解釈した。
「読めたぞ!連中は千寿丸を将軍に担ぎ上げ、北条氏を討とうとしていた!」
「おっしゃる通り!」
「捨て置けぬ!ふらちな謀反をたくらんだ泉ら全員を逮捕せよ!」
「ただちに!」
義時は金窪と安東および小山朝政(おやまともまさ)・二階堂行村(にかいどうゆきむら)・結城朝光(ゆうきともみつ)らに謀反人の追捕を命じた。
鎌倉時代の正史『吾妻鏡』によると、以下の人々が逮捕されたという。
一村近村
籠山(小宮山)次郎
上田原平三父子
狩野小太郎
宿屋(宿岩)重氏
園田成朝
和田義直
和田義重
和田胤長
渋河兼守
磯野小三郎
保科次郎
粟沢太郎父子
木曽滝口父子
八田知基 など330人余
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現在の鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)周辺 |
また、首謀者とされた泉親衡は逃亡したが、三月に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう。鎌倉市)近くの橋に潜伏しているという情報がもたらされた。
「捕えてこい」
「ははっ!」
義時の命で工藤十郎(くどうじゅうろう)が郎党十数名を率いて向かうと、親衡は逃げるでもなく橋のたもとで独りでゴロ寝していた。
「いたぞ!」
「ヤツは猛者だ!用心しろよ!」
「取り囲め!」
バラバラパラ!
たちまち郎党たちが親衡を取り囲んだ。
圧倒的優位に立った工藤が、強気に呼びかけた。
「キサマは完全に包囲された!おとなしくお縄にかかりやがれ!」
「何ゆえに?」
「キサマが謀反人だからだ!」
「知らねえな」
「構わぬ!者ども、アヤツを斬り伏せい!」
郎党たちは喜んだ。
「そうこなくっちゃ!」
「めった斬りにしてやるぜー!」
「でやー!」
じゅば!
じゅば!
じゅば!
じゅば!
じゅば!
しーん。
斬り伏せられたのは工藤とその郎党たちであった。
「つまんねえヤツら」
ブン!
親衡は悠々と血刀を払ってかつぐと、どこへともなく消えていった。
一方、親衡に擁立されたという源千寿丸も捕られられたが、尼将軍・北条政子のはからいによって日本臨済宗開祖・栄西に預けられ、栄実(えいじつ)と名乗ることになった。
「命を大切にしなさい」
「はい」
が、政子の孫への願いはかなわなかった。
彼はこの翌年、再び反乱の盟主に祭り上げられて殺されてしまうことになるのである。