4.和田義盛

ホーム>バックナンバー2013>4.和田義盛(わだよしもり)

北朝鮮の挑発
1.信濃前司行長
2.阿静房安念
3.泉 親衡
4.和田義盛
和田義盛 PROFILE
【生没年】 1147-1213
【別 名】 小太郎
【本 拠】 相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市)
【職 業】 武将
【役 職】 侍所別当・宿老
【 父 】 杉本義宗(三浦義明の子)
【 母 】 長井(大江)時秀女
【 妻 】 大庭景継女
【 子 】 和田常盛・義氏・朝比奈義秀・金窪義直
・義重・義信・秀盛・杉本義国
【兄 弟】 和田義茂・杉本宗実・杉本義胤・和田義長
【主 君】 源頼朝→源頼家→源実朝
【仇 敵】 北条義時ら
【墓 地】 和田塚(神奈川県鎌倉市)
【霊 地】 白旗神社(三浦氏)

 一族郎党中十数人が逮捕された侍所別当・和田義盛はおもしろくなかった。
 建暦三年(1213)三月八日、義盛は一族郎党九十八名を率いて大倉御所に乗り込み、北条義時に迫った。
「どういうことだ?」
「なんでしょう?お顔が真っ赤ですが、昼間から一杯やってきましたか?」
 義盛が「四斗兵衛」の異名を持つ酒豪だということは「朦朧味」で紹介した。
「飲んでるわけじゃねえ!しらふだ!怒りで真っ赤になっているだけだ!そんなことより、今すぐ息子や甥、一族郎党の者たちを獄から出しやがれ!関係者から話を聞いたぞ!それも一人や二人ではない!聞けば聞くほど冤罪
(えんざい)ではないか!」
「冤罪かどうかは問注所が決めること」
「冤罪だ!不当逮捕だっ!それともなんだ?北条は和田にケンカを売っているのか!幕府の武力を握っている和田に!」
「聞き捨てなりませんな。和田が幕府の武力を握っているのは確かですが、我が北条は幕府の胃袋を握っています。腹が減っては戦はできますまい」
「何だと!武士は食わねど高楊枝
(たかようじ)だ!」
「まあまあ。そうカッカなされますな。幕府の内部分裂はそれこそ朝廷の思うツボ。御家人たちが反乱を起こすたびに朝廷の連中は腹を抱えて笑っておりましょう」
「確かにその通りだ。こんなにも御家人たちの仲が悪いのは、朝廷が何か裏で小細工を仕掛けているからに違いない!」
「そうですよ。朝廷の魔の手にあなたの息子や甥も引っかかったってわけですよ」
「引っかかってはいないわぁー!」

 同日、義盛の息子義直と義重は釈放されたが、甥の胤長は許されなかった。
 そのため義盛は翌日も一族郎党を率いて甥の赦免嘆願に赴いたが、結局、胤長は許されず、二階堂行村の所領のある陸奥国岩瀬郡
(福島県須賀川市ほか)への流刑が決定した。
「叔父上。申し訳ありません」
 縛られた胤長は、二階堂に、
「ほら、早く歩け!」
 と、小突かれながら、一族郎党の前を後にした。
 義盛は憤った。
「何たる屈辱!何たる侮辱!」
 それでも耐えるしかなかった。

 義盛は胤長の館に代官として久野谷弥太郎(くのややたろう)を住まわせることにした。
 当時、没収された御家人の館は、一族が相続するのが慣例だったためである。

 ところが義時は、それすら許さなかった。
「胤長の館は幕府が接収する」
 として、四月二日に金窪行親と安東忠家を遣わし、家族団欒
(だんらん)でくつろいでいた久野谷一家をたたき出してしまったのである。
 そのため久野谷一家はべそをかいて義盛のところに戻ってきた。
「追い出されちゃいました〜」
 義盛は激怒した。
「何という仕打ちだ!北条の横暴ぶりは目に余る!」
 憤懣
(ふんまん)やるせない義盛は、同年五月に、「和田合戦」を起こすことになるのであった。

[2013年4月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ 泉親衡の乱と『平家物語』をくっつけたのは、筆者の解釈です。
※ 横浜市泉区にある泉中央公園は、親衡の館があった場所とされています。
※ 福島県鏡石町には、流刑後に処刑された和田胤長の妻が後追い自殺を遂げたという「鏡沼
(かげぬま)」があります。
※ 長野県上田市には、安念の寺に通っていた少女の名がついた「柳小坂」という坂があるそうです。

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system