5.そして飽くなき欲望

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裏金
1.流れ芸人の子
2.宝の山を発見する方法
3.再就職と出世
4.本多正信の壁
5.そして飽くなき欲望

 大久保長安は思った。
「ボクが本多の壁を破ることができなかった理由は、ゼニが少な過ぎたからだ」
 そして、石見銀山を視察しながら思案した。
「いったいどうしたら少しでも多く、圧倒的に多く、天文学的な量の銀を生産することができるか?」

 長安は思いつく限りの方法を試してみた。
 まず、新採掘法を導入した。
 それまで縦に穴を掘っていたのを、横から掘って排水を良くしたことにより、より多くの鉱石を採取できるようにしたのである。

 また、新精錬法も導入した。
 鉱石に水銀を流して含有金銀を抽出、後で水銀を蒸発させて取り除くという「水銀流し
(アマルガム法)」を行わせ、より効率良く銀を精錬できるようにしたのである。
 水銀なので有毒ガスが発生するわけだが、そんなことは現場にいない長安の知ったことではなかった。

 さらに、自分山(じぶんやま。山師の私営)だった多くの鉱山を、直山(じきやま。幕府の直営)にした。
 そうすることによって幕府の収入を増やし、裏金作りもやりやすくしたのである。

 結果、銀の生産は爆発的に増えた。
 釜屋間歩
(かまやまぶ。間歩は坑道。現在は国史跡)の開発者で、長安配下の山師・安原伝兵衛(やすはらでんべえ)は、年間三千六百貫(約13500kg)もの運上を収めるほどになった。これを平成十六年(2004)四月二日現在の銀小売価格に換算すると、約四億千二百四十三万円(付加価値除外)になる。
「どうです? こんなに出ましたけど」
 自慢そうに次から次へと銀塊を差し出した安原だったが、長安はまだ不満だった。
「少ない。お前、ちょろまかしてはいないだろうな?」
「めっそうもない!」
 長安は鬼のように命じた。
「まだまだ少ない! もっともっと掘って掘って掘りまくれ! ちょろまかすことは絶対に考えるなよ。それを考えるのは、このボクだ」

 長安の裏金作りは、この頃から始められたのであろう。
 つまり、幕府には銀の生産量を過少報告し、その分自分の財布
(財布には入り切らないが……)に不正に貯め込んでいたわけである。

 こうして作った裏金を元手に、長安は行動を開始した。
 まず、佐渡の百姓たちにゼニをつかませると、こう幕府に訴えさせた。
「今のお代官様はひどいんです〜」
「年貢を倍にしようと企んでいるんです〜」
「いいないいな、石見の大久保様は優しいから〜」

 徳川家康佐渡の百姓たちの訴えを聞き入れた。
 佐渡の代官・中川主税
(なかがわちから)らを処罰すると、長安に佐渡金山も支配させたのである。

「しめしめ。うまくいった」
 まんまと佐渡金山を手に入れた長安は、今度は伊豆にも魔の手を伸ばした。
 伊豆でも百姓たちにゼニをばらまいたのである。
「悪いことには加担できないな」
 初めは躊躇
(ちゅうちょ)する百姓もいたが、ばらまかれたゼニのあまりの多さにびっくり、みんな考えを改め、喜んで協力してくれた。
「今のお代官様はひどいんです〜」
「年貢を倍にしようと企んでいるんです〜」
「いいないいな、石見佐渡の大久保様は優しいから〜」

 家康は、伊豆の百姓たちの訴えも聞き入れた。
 代官頭・彦坂元正を改易にし、伊豆金山も長安に任せたのである。

 こうして長安は、日本最大級の金銀山を独り占めすることに成功した。
 職場がたくさんあるため、長安は現地には赴任しなかった。
 佐渡の民政は大久保山城
(田辺安政。田辺十郎左衛門の子)・宗岡佐渡(むねおかさど)・吉岡出雲(よしおかいずも)ら側近らに任せ、安原ら山師が現場を監督、自分は駿府(すんぷ。駿河府中。静岡県静岡市)で左団扇で総指揮を取ったのである。

 その代わり抜き打ちで現地視察には赴いた。みんながサボってないか、見に行くわけである。
 その折は、常に美女二十人と猿楽師二十人を引き連れてのお出ましだったという。
 これらは下財
(げざい。坑夫)たちを奮起させるためのチアガールや応援団みたいなものであろう。
「げっ! 大久保様がいらっしゃった!」
 下財たちは、長安率いる美女芸能軍団の登場に恐れおののいたことであろう。
 ちなみに慶長の頃の石見銀山の場合、下財は一日五交代制で、日当は熟練の者でも銀二匁
(約五千円)ほどだったという。

 こうして家康のところに続々と金銀が運ばれた。
 当然、長安が「裏金分」を差し引いた「残金」であったが、それでも莫大な量であった。
「ほほっ! すごいのう!」
 家康はホクホクで伏見別邸の大きな隠し部屋に金銀をしまっておいたが、そのうちに重みに耐えかねてやなが壊れ、下の部屋がつぶれてしまったため、慶長十二年(1607)三月にそれら金銀をすべて駿府城に輸送させた。
 このとき輸送された金銀は、二万一千貫もあったという。
 金銀の比率は不明だが、仮に金一万貫
(約37500kg)、銀一万一千貫(約41250kg)として平成十六年四月二日現在の金銀小売価格に換算すると、約五百九十三億四千七百六十九万円ということになる(付加価値除外)

 長安のところには、当然それ以上の金銀があったのであろう。
 日々増えてゆく金銀財宝に、長安はいとおしげに語りかけた。
「いいぞいいぞ。ボクのおカネたち。もっともっと増えるんだ。そして、ヤツを倒すんだ。ヒヒッ! ヒヒッ!」
 ヤツとは、かつて自分を袖
(そで)にした、憎き本多正信であった。
 長安は確信していた。
「ヤツは圧倒的なゼニによって、轟沈
(ごうちん)されるんだっ!」

 しかし、長安の悲しき野望がかなうことはなかった。
 慶長十七年(1612)三月、彼は中風
(ちゅうふう・ちゅうぶう。中気。脳卒中)を患い、翌年四月にあっけなく死んでしまったのである。享年六十九歳であった。

大久保長安の逆修塔
(生前に自分で作った墓)
(新潟県佐渡市)

写真提供佐渡市

 長安が死ぬと、待ってましたとばかりに正信は家康にチクッたのであろう。
「ヤツはカネを持ってますよ」
「そりゃあ、それなりに持っているじゃろう」
「いえ、その、大御所様よりもずっとたくさん持ってますよ」
「なんじゃと!」
 目を三角にして驚いた家康は、長安の周囲を徹底的に調べさせた。

 膨大な金銀がゾロゾロ出てきたのはもちろん、たたけばたたくほど、次から次へと捨て置けない疑惑が発覚した。
「長安は金銀山や天領から莫大な裏金を作っていたそうな」
「自分だけではなく、松平忠輝
(まつだいらただてる。家康の六男)や石川康長(いしかわやすなが。石川数正の子)らにも裏金作りを広めていたそうな」
「長安が裏金を作っていた理由は、本多正信を失脚させるつもりだったそうな」
「長安の庇護者で、正信の政敵・大久保忠隣もグルだったそうな」
「忠輝の舅
(しゅうと)伊達政宗も一味だったそうな」
「長安は九州のキリシタンを蜂起させて将軍
(秀忠)と大御所(家康)を殺し、忠輝を将軍にする計画も立てていたそうな」
「長安は自分は関白になり、政宗が実権を握るつもりだったそうな」
「長安は忠輝将軍を実現するため、ポルトガル国王に援軍要請の手紙を送っていたそうな」
政宗支倉常長を欧州に派遣したのも、同様の理由だったそうな」
ポルトガル国王は日本のキリシタンがもっと増えたら援軍を送ると返答してきたそうな」

●大久保長安事件主要処罰者●

処罰者 身分・関係 処罰
大久保藤十郎 長安の長男。妻は石川康長の娘。 切腹
大久保藤二郎 長安の次男。妻は池田輝政の娘。 切腹
大久保権之助 長安の三男。妻は青山成重の娘。 切腹
大久保運十郎 長安の四男。 切腹
大久保藤五郎 長安の五男。 切腹
大久保権六郎 長安の六男。 切腹
大久保藤七郎 長安の七男。 切腹
青山成重 長安の義兄弟。年寄衆(老中) 解任
石川康長(三長) 長安の義兄弟。信濃深志(松本)藩主 改易
米津親勝(正勝) 長安の手下。堺奉行 改易

「なんじゃこれは!」
 激怒した家康は、長安の七人の息子を切腹させると、その遺産をすべて没収、彼の縁者や彼に取り入っていた人々も処罰した。
 また、この前年に発していたキリスト教禁教令を厳しくし、キリシタンの国外追放も実施した。
 左が大久保長安事件に関連して処罰された主な縁者や関係者である。

 なお、長安の庇護者であった忠隣は、このときは処罰を免れたが、翌慶長十九年(1614)に突然改易させられている。

*          *          *

 長安一族が絶えた後、正信が自邸に満ち満ちた金銀を眺めて、
「やっぱり、カネはいいのう〜」
 と、ニヤニヤしたかどうかは定かではない。

[2004年3月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ この物語では、佐渡や伊豆の百姓たちを長安が扇動して金山を乗っ取ったことにしたが、筆者の勝手な推測であり、彼がやったという確証はありません。
※ 長安の死後に発覚した数々の疑惑もどこまで本当なのか分かりません。 すべて家康や正信の策謀だったということも考えられます。

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