1.義仲挙兵 〜 以仁王の令旨 | ||||||||||||||
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源(木曽)義仲 PROFILE | |
【生没年】 | 1154-1184 |
【別 名】 | 駒王丸・木曽冠者・旭(朝日)将軍 |
【出 身】 | 武蔵国大蔵館?(埼玉県嵐山町) |
【本 拠】 | 信濃国木曽(長野県木曽町 |
【職 業】 | 武将 |
【役 職】 | 左馬頭・伊予守→征夷大将軍 |
【位 階】 | 従四位下 |
【 父 】 | 源 義賢(為義の子) |
【 母 】 | 遊女某 |
【養 父】 | 中原兼遠 |
【 兄 】 | 源仲家(源頼政養子) |
【 妻 】 | 巴御前・葵御前(山吹) |
【 子 】 | 源義高 |
【部 下】 | 樋口兼光・今井兼平・根井行親・楯親忠ら |
【お じ】 | 源義朝・源行家・源義広・源為朝ら |
【従兄弟】 | 源頼朝・源範頼・源義経ら |
【仇 敵】 | 源義平・平宗盛・後白河法皇・源頼朝ら |
【墓 地】 | 義仲寺(滋賀県大津市) |
「平家にあらずんば人にあらず」
世は、そういう時代であった(「富豪味」参照)。
仁安二年(1167)、武士として初めて太政大臣に昇り詰めた平清盛(「高齢味」参照)は、治承三年(1179)、治天の君・後白河法皇を幽閉、院政を止めさせて国権を掌握した。
この年、平家一門の知行国は急増、全国の過半を超えるまでになった。
翌治承四年(1180)二月、清盛は大輪田泊を修復、日宋貿易というゼニもうけにも凝り始めた。
また、娘婿・高倉天皇に譲位を迫り、かわいい外孫・安徳天皇を即位させることにも成功した。
後白河法皇の皇子の一人・以仁王は憤慨した。
「新帝はわずか三歳。傀儡(かいらい)もいいとこだ!」
おもしろくない彼は、源氏唯一の公卿・源頼政(「暴走味」参照)と図り、同年四月に諸国の源氏に平家打倒の挙兵を呼びかけた。
いわゆる「以仁王の令旨」である。
翌月、清盛に感づかれた以仁王と頼政は、平知盛(とももり。清盛の四男)・重衡(しげひら。清盛の五男)らの大軍に攻められ、山城宇治(うじ。京都府宇治市)の平等院の戦であえなく敗死した。
が、令旨の力は絶大だった。諸国で源氏諸将が次々と挙兵したのである。
「平氏ばかり甘い汁を吸いやがって!」
かつて清和源氏は、桓武平氏と並ぶ武家の棟梁(とうりょう)であった。
ところが、保元元年(1156)の保元の乱で源氏の首領・源為義が、平治元年(1159)の平治の乱でその子・義朝が相次いで敗死して以降、一族は中央から遠ざけられ、辺境の地へと配流されていたのである。
紀伊熊野(「2004年8月号 熊野味」参照)では、為義の十男・行家(ゆきいえ。義盛)が以仁王の令旨を伝えに東国へ走った。
常陸では、為義の子・源(志田)義広(よしひろ)が挙兵した。
伊豆では、義朝の三男・源頼朝が挙兵した。
その他の義朝の遺児・範頼、義円(ぎえん)、義経らも立ち上がった。
甲斐では、源(武田)信義(のぶよし)、源(安田)義定(よしさだ)らが挙兵した。
美濃・尾張では、源(木田)重長(しげなが)・源(浦野)重遠(しげとお)らが立ち上がった。
近江では、源(山本)義経、源(柏木)義兼(よしかね)らも挙兵した。
河内では、源(石川)義基(よしもと)、源義兼らが立ち上がった。
東大寺・興福寺も源氏になびいた。
延暦寺・園城寺も源氏に味方した。
そして信濃では、源義仲が挙兵したのである。
治承四年(1180)九月のことであった。