2.平家襲来 〜 火打城の戦

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日本ウシ史
1.義仲挙兵 〜 以仁王の令旨
2.平家襲来 〜 火打城の戦
3.源平激突 〜 倶利伽羅峠の戦

源義仲に不穏な動きがある」
 情報を得た信濃伊那
(いな。長野県伊那市)に住む平家方の武将・笠原頼直(かさはらよりなお。あるいは小笠原)は、これを討つべく木曽(きそ。長野県木曽町)へ攻め込んだが、返り討ちにあって越後へ逃亡した(市原の戦)

 義仲信濃を平定すると、上野をも制圧しようとしたが、これは鎌倉源頼朝に遠慮してあきらめた。
 頼朝との関係は一時緊迫したが、義仲は我が子・義高
(よしたか)を人質に差し出し、頼朝の長女・大姫(おおひめ)と婚約させることによって戦いを回避した。

 頼朝はこの年八月、相模石橋山(いしばしやま。神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親(おおばかげちか)に敗れたが(石橋山の戦)、十月に駿河富士川(ふじがわ。静岡県富士市)で平維盛(これもり。清盛の嫡孫。重盛の子)軍に大勝し(富士川の戦)、リベンジを果たしていた。

 養和元年(1181)六月、笠原頼直から助けを求められた越後守・城長茂(じょうながもち。助職・資茂)は、越後出羽陸奥から一万の大軍をかき集め、信濃へ侵攻した。
 義仲は千曲川
(ちくまがわ。長野県長野市)にて三千の兵で迎え撃つと、奇襲でもってこれを粉砕(横田河原の戦)、九月には越前水津(すいづ。福井県敦賀市)で平通盛(みちもり。清盛の甥。教盛の子)を撃退し(水津の戦)北陸道を制圧した。

 この年閏二月四日、おごれる平家の総帥・平清盛が六十四歳で没した。
 後を継いだボンボン平宗盛
(むねもり。清盛の三男)は、すでに政権は後白河法皇に返上していたものの、源氏討伐だけは止めなかった。
頼朝の首を我が墓前に供えよ」
 それが清盛の遺言だったからである
(「高齢味」参照)

 晩年清盛は、各地で立ち上る源氏の炎を躍起になってもみ消し続けた。
 近江河内源氏を蹴散
(けち)らし、延暦寺園城寺を猛攻、東大寺興福寺をことごとく焼かせた。
 清盛が没した翌月には、平重衡らが美濃墨俣川
(すのまたがわ。岐阜県大垣市)で源行家を撃退、源義円を討ち取っていたので(墨俣川の戦)、残る強敵は東海道頼朝(武田信義は頼朝に帰属)と、北陸道義仲(行家・志田義広は義仲に帰属)だけになっていたのである。

頼朝はまだ関東の地固めに専念しているが、義仲は上洛の機会をうかがっている」
 そこで平家は、寿永二年(1183)四月、平維盛・通盛率いる十万の大軍を北陸道に派遣した。
義仲の動員兵力はどんなに多く見積もっても五万。フ、フンッ。全然怖いことはなーい」
 大将軍維盛は、さる富士川の戦で、飛び立つ水鳥の羽音に驚き、思わず敗走してしまったあの将軍である。かの芥川竜之介は、その著「木曽義仲論」の中で彼のことを「五月人形」呼ばわりしている。
「富士川の汚名を晴らしてやるのだっ!」

 平家軍は優雅に竹生島(ちくぶしま。滋賀県長浜市)詣をした後、大挙して越前へ侵攻、義仲の出城・火打城(ひうちじょう。福井県南越前町)を取り囲んだ。

 火打城には兵六千が立てこもっていたが、あまりの敵の多さに守将・平泉寺長吏斎明(へいせんじちょうりさいめい)はびびってしまい、こっそり敵に矢文を放った。
「この城には人口のため池があるんですよ。これを壊してしまえば、城兵はたちまち戦意を喪失します。攻めてこられれば、私らも喜んでお味方いたしますしー」
 と、攻略法を教えてしまったのである。
 そこで平家軍がその通りにしてみると、難なく城は落ちてしまった。
 勝った平家軍は加賀へ侵攻、義仲方の諸城を焼き払うと、続いて越中へなだれ込んだ。

「平家軍、越中へ乱入!」
 敗報を越後国府
(新潟県上越市)で聞きつけた義仲は、自ら出陣した。
 まず、側近・今井兼平
(いまいかねひら)に兵六千を分け与えて越中へ先発させた。
 兼平は越中般若野
(はんにゃの。富山県砺波市富山県高岡市)で平家軍先陣・平盛俊(もりとし)を攻撃、これを加賀へ追いやることに成功した(般若野の戦)

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