有間皇子の変1.発 端 | ||||||||||||||
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僕の名前は有間皇子。
父が摂津有馬温泉(兵庫県神戸市北区)に湯治に行っているときに生まれたので、この名がつけられたらしい。
有間皇子 PROFILE | |
【生没年】 | 640-658 |
【出 身】 | 有馬温泉(神戸市北区) |
【本 拠】 | 大和国市経(奈良県生駒市) |
【職 業】 | 皇族・万葉歌人 |
【官 職】 | 無位無官 |
【 父 】 | 孝徳天皇 |
【 母 】 | 阿倍小足媛(阿倍内麻呂女) |
【義 父】 | 中臣(藤原)鎌足 |
【継 母】 | 間人皇女(中大兄皇子妹) |
【伯 母】 | 斉明(皇極)天皇 |
【 子 】 | 日下部表米? |
【従兄弟】 | 中大兄皇子(天智天皇) ・大海人皇子(天武天皇)ら |
【友 人】 | 塩屋小戈ら |
【部 下】 | 新田部米麻呂・守大石ら |
【仇 敵】 | 中大兄皇子 |
【墓 地】 | 藤白坂(和歌山県海南市) |
父は天皇だ。後世いう伝三十六代天皇・孝徳天皇である(「天皇家系図」参照)。
大化の改新で知られる中大兄皇子の叔父に、日本で二人目の女帝・皇極天皇(こうぎょくてんのう。後の斉明天皇)の弟に当たる。
乙巳(いつし)の年(645)、中大兄皇子は藤原氏の祖・中臣鎌足(「中臣氏系図」参照)らとともに、時の実力者・蘇我入鹿(「蘇我氏系図」参照)を暗殺、その父・蝦夷を自殺に追い込んで実権を握った(乙巳の変)。
にもかかわらず、中大兄皇子は自ら皇位に就こうとはしなかった。
「だまし討ちを行った私がすぐさま皇位に就いては、国民の反感を買うことでしょう」
そのため、政変に関与していなかった父に白羽の矢が立てられたのである。中大兄皇子は父に即位するように懇願したという。
「分かった」
父は承諾して即位した。
中大兄皇子は妹の間人皇女(はしひとのおうじょ・はしひとのひめみこ)を父に嫁がせて皇后とし、自分は皇太子に、鎌足は内臣になった。
初め、父は上機嫌だった。なにしろ思いがけず天皇になれたのである。
しかし、自分は中大兄皇子らのお飾りの天皇だということが分かってくると、次第に不機嫌になっていった。
その年の末、父が中大兄皇子に言った。
「摂津の難波(なにわ。大阪府大阪市)に遷都しようと思うが、どうだろう?」
中大兄皇子が無表情に言った。
「あなたは天皇ですから、どうぞお気のままに」
珍しく、父の言い分が通った。
同年十二月、父は難波に遷都した。長柄豊碕宮である。
白雉五年(654)になり、中大兄皇子が父に言った。
「やっぱり都は大和の飛鳥(あすか。奈良県明日香村)のほうがいいですね」
「そんなことはない。難波のほうがいいぞ」
父が反発すると、中大兄皇子は本性を現した。
「そんなに難波がお気に入りなら、天皇一人で住み続けているがいい」
「なんだと! おまえこそ一人で飛鳥へ帰れ!」
中大兄皇子の態度に父は激怒した。
すると中大兄皇子は、独断で遷都の準備を始めた。
父には自信があった。
(朕(ちん)は天皇だぞ。だれが天皇の意向を無視して皇太子の言うことなど聞くか)
まもなく、父の自信は木っ端微塵(みじん)に打ち砕かれた。
中大兄皇子は鎌足以下の役人たちだけではなく、先帝・皇極天皇や、皇后・間人皇女らまで引き連れて飛鳥に帰ってしまったのである。
父は愕然(がくぜん)とした。
(鎌足らはともかく、どうして姉や妻までもが皇太子のいうことを聞くのだ)
失望の余り寝ついてしまった。
ひっそりとした宮殿で、僕は父の看病をした。
父の病気は一向によくならなかった。
父はいつも嘆いていた。
「何一つとして、思うがままになることはなかった。天皇になど、なるのではなかった。朕は、中大兄皇子と鎌足にだまされたのだ……」
翌年、父はさびしく亡くなった。今から四年前のことである。
中大兄皇子は、父の葬儀にも出席しなかった。
僕は中大兄皇子をうらんだ。
父の死後も、中大兄皇子は即位しようとはしなかった。
「それでは母上、もう一度」
と、皇極天皇に再び皇位に就いてもらった。斉明天皇(さいめいてんのう)である。そして、実権は自分が握った。
中大兄皇子は考えていた。
「私が皇位につけば、皇太子を立てなければならない。我が子・大友皇子はまだ小さいのに、ほかに誰を立てろというのか」
いないわけではなかった。
中大兄皇子には弟の大海人皇子がいるし、従兄弟の有間皇子、すなわち僕もいる。だが彼は、弟も僕も嫌いだった。
「大友が大きくなるまでは、即位するのはよそう」
そう考えているのであろう。
僕の母は阿倍小足媛(あべのおたらしひめ)。
大化の改新で諸豪族の長老として左大臣になった阿倍内麻呂(うちまろ。阿倍倉梯麻呂)の娘である(「阿倍氏系図」参照)。
あるとき、僕が家に帰ると、母がいなくなっていた。
「お母さんは?」
僕が聞くと、父は答えた。
「お母さんはな、鎌足のところに行った」
なかなか帰ってこないので、また尋ねた。
「いつ帰ってくるの?」
「お母さんはもう帰ってこないんだよ」
「どうして?」
「お母さんは鎌足と再婚したんだ。中臣家の家の者になったんだ」
「いやだー!」
僕は反抗した。鎌足のところに押しかけたが、やんわりと追い返された。
僕は父に怒った。
父は僕をなだめた。
「お父さんは鎌足に『いいもの』をもらったんだ。お母さんはそのお返しなんだよ。お父さんにはほかに、お礼できるものはなかったんだ」
今から思えば、『いいもの』とは、名誉と女であった。形式だけの『皇位』と、若くて美しいが、石のように冷たい『皇后』であった。父がだまされたことに気づくのはまだ先のことである。しかし、僕は父より先んじて鎌足のことを嫌いになった。
しばらくして、母は「弟」を連れて会いにきた。鎌足の長子・定恵(じょうえ)である(「藤原氏系図」参照)。
僕は母も嫌いになった(一説に定恵の母は車持与志古娘だとも伝えられている)。
僕は十九歳になった。
「おまえも十九になったか」
あるとき、僕を嫌いな、僕も嫌いな中大兄皇子がしみじみと言った。
中大兄皇子は十九歳のとき、鎌足とともに蘇我氏打倒を企てるようになったのである。
中大兄皇子はさりげなく恐ろしいことを尋ねてきた。
「おまえは『暗殺』とか『皇位』とかに興味はあるか?」
「ないよ」
僕は即座に笑って否定した。
事実、僕には興味はなかった。中大兄皇子のように人を殺し、父のように天皇になったところで、いったい何の幸せがあろうか?
中大兄皇子は疑い深かった。重ねて尋ねてきた。
「でも、嫌いな人間はいるんだろう?」
僕は無言で中大兄皇子の顔をにらんだ。
彼は僕の内心をすべて見透かしたかのようにあざけり笑うと、急に真顔に戻っておどしをかけた。
「それを口にすれば、おしまいだぞ」
そんなことは分かっていた。
僕はアホなふりをした。努めて頭が悪いふりをするようになった。
「有間皇子が狂った」
人々はうわさした。
うわさは中大兄皇子の耳にも届いた。
しかし、中大兄皇子はだまされなかった。
僕の異常言動を、彼は鼻で笑った。目では笑っていなかった。
「そんなことでこの私をだませるとでも思っているのか。貴様の破滅はどうあがいてもまぬがれようがないのだ」