1.昨日の友は今日の敵 | ||||||||||||||
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佐々木高氏 PROFILE | |
【生没年】 | 1296or1306-1373 |
【別 名】 | 京極導誉・道誉・四郎 ・佐渡大夫判官入道 |
【本 拠】 | 近江国(滋賀県) |
【職 業】 | 武将 |
【役 職】 | 雑訴決断所奉行人内談方→引付頭人 →政所執事→評定衆・近江守護 ・若狭守護・出雲守護・上総守護 ・摂津守護・飛騨守護 |
【位 階】 | 従五位下 |
【 父 】 | 佐々木(京極)宗氏 |
【 母 】 | 佐々木宗綱女 |
【 妻 】 | 二階堂時綱女 |
【 子 】 | 佐々木(京極)秀綱・秀宗・高秀 ・女(赤松則祐質)・女(斯波氏頼質) ・女(六角氏頼質)ら |
【兄 弟】 | 池田貞信・鏡貞氏・鞍智時満・高谷貞満 ・岩山秀信・稲口経氏 |
【主 君】 | 北条高時→後醍醐天皇→足利尊氏 →足利義詮→足利義満ら |
【仇 敵】 | 山名師義・仁木義長 ・細川清氏・斯波高経ら |
【作 品】 | 立花口伝大事 |
【墓 地】 | 勝楽寺(滋賀県甲良町) ・徳源院(滋賀県米原市) |
二人には目的があった。
二人とは、佐々木高氏(ささきたかうじ。「京極氏系図」参照)と斯波高経(しばたかつね。「斯波氏系図」参照)。
目的とは、室町幕府執事・細川清氏(ほそかわきようじ。「細川氏系図」参照)を追い落とすこと。
高氏の娘は高経の三男・斯波氏頼(うしより)に嫁いでいた。
親類ではあったが、仲は良くなかった。
仲は良くなかったが、目的のために連携する必要があった。
ようするに野合であった。
康安元年(1361)九月、室町幕府二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら。「足利氏系図」参照)の信を失った清氏は若狭へ逃亡、追手の斯波軍に敗れて南朝に投降した。
ここに二人の目的は成ったのである。
高氏は喜んだ。
「執事はいなくなった。後任の執事は婿殿氏頼にしよう」
ところが、氏頼は要請を拒否した。
「我が斯波氏は足利氏と同門で、つい先頃まで足利姓を名乗っていました。執事などというものは家来筋がやるもの。拙者にはそのような卑職は引き受けかねます」
と、出家してしまったのである。
困った将軍義詮は、高経に頼んだ。
「執事は卑職ではなく重職である。幕政を統括する管領なのじゃ。子が嫌ならそちが代わってやってはくれぬか?」
高経はうんとは言わなかったが、
「拙者の子は一人ではございません」
と、四男・斯波義将(よしゆき・よしまさ。「戦争味」参照)を推したのである。
貞治元年(1362)七月、斯波義将は執事改め管領となった。
当年十三歳。
幼かったため、高経が後見人として権力をふるった。
高氏はおもしろくなかった。
(氏頼の執事辞退と義将の管領就任は高経の筋書き通りだ)
高氏は見抜いていた。
(そして、高経めもオレの魂胆を見抜いていた!)
高氏は氏頼をダシに「院政」をしようとたくらんでいた。
そのため高経は、高氏の野望を阻止するために、逆に自分が「院政」を始めたのである。
高氏はおもしろくなかった。
(おのれ高経め!自分だけいい思いをしやがって!これじゃあ細川を追い落とした意味がない!このままですむものか!)
ここに二人の野合は決裂した。