1.昨日の友は今日の敵

ホーム>バックナンバー2012>1.昨日の友は今日の敵

ぶち切れ解散→野合選挙
1.昨日の友は今日の敵
2.恐怖政治
3.バサラな花見
佐々木高氏 PROFILE
【生没年】 1296or1306-1373
【別 名】 京極導誉・道誉・四郎
・佐渡大夫判官入道
【本 拠】 近江国(滋賀県)
【職 業】 武将
【役 職】 雑訴決断所奉行人内談方→引付頭人
→政所執事→評定衆・近江守護
・若狭守護・出雲守護・上総守護
・摂津守護・飛騨守護
【位 階】 従五位下
【 父 】 佐々木(京極)宗氏
【 母 】 佐々木宗綱女
【 妻 】 二階堂時綱女
【 子 】 佐々木(京極)秀綱・秀宗・高秀
・女(赤松則祐質)・女(斯波氏頼質)
・女(六角氏頼質)ら
【兄 弟】 池田貞信・鏡貞氏・鞍智時満・高谷貞満
・岩山秀信・稲口経氏
【主 君】 北条高時→後醍醐天皇→足利尊氏
→足利義詮→足利義満ら
【仇 敵】 山名師義・仁木義長
・細川清氏・斯波高経ら
【作 品】 立花口伝大事
【墓 地】 勝楽寺(滋賀県甲良町)
・徳源院(滋賀県米原市)

 二人には目的があった。
 二人とは、佐々木高氏
(ささきたかうじ。「京極氏系図」参照)と斯波高経(しばたかつね。「斯波氏系図」参照)
 目的とは、室町幕府執事・細川清氏
(ほそかわきようじ。「細川氏系図」参照)を追い落とすこと。
 高氏の娘は高経の三男・斯波氏頼
(うしより)に嫁いでいた。
 親類ではあったが、仲は良くなかった。
 仲は良くなかったが、目的のために連携する必要があった。
 ようするに野合であった。

 康安元年(1361)九月、室町幕府二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら。「足利氏系図」参照)の信を失った清氏は若狭へ逃亡、追手の斯波軍に敗れて南朝に投降した。
 ここに二人の目的は成ったのである。
 高氏は喜んだ。
執事はいなくなった。後任の執事は婿殿氏頼にしよう」
 ところが、氏頼は要請を拒否した。
「我が斯波氏足利氏と同門で、つい先頃まで足利姓を名乗っていました。執事などというものは家来筋がやるもの。拙者にはそのような卑職は引き受けかねます」
 と、出家してしまったのである。
 困った将軍義詮は、高経に頼んだ。
執事は卑職ではなく重職である。幕政を統括する管領なのじゃ。子が嫌ならそちが代わってやってはくれぬか?」
 高経はうんとは言わなかったが、
「拙者の子は一人ではございません」
 と、四男・斯波義将
(よしゆき・よしまさ。「戦争味」参照)を推したのである。

 貞治元年(1362)七月、斯波義将は執事改め管領となった。
 当年十三歳。
 幼かったため、高経が後見人として権力をふるった。

 高氏はおもしろくなかった。
(氏頼の執事辞退と義将の管領就任は高経の筋書き通りだ)
 高氏は見抜いていた。
(そして、高経めもオレの魂胆を見抜いていた!)
 高氏は氏頼をダシに「院政」をしようとたくらんでいた。
 そのため高経は、高氏の野望を阻止するために、逆に自分が「院政」を始めたのである。
 高氏はおもしろくなかった。
(おのれ高経め!自分だけいい思いをしやがって!これじゃあ細川を追い落とした意味がない!このままですむものか!)
 ここに二人の野合は決裂した。

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system