3.ウ ラ 〜 おぞましき絡繰 | ||||||||||||||
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実は、光仁天皇の即位には、カラクリがあった。
一人の策士が詐欺(さぎ)を行ったのである。
策士の名前は、藤原百川(ももかわ。雄田麻呂。「奈良味」「式家系図」参照)。
式家の祖・藤原宇合(うまかい)の八男で、その長兄は「暴発味」で紹介した藤原広嗣である。
天平十二年(740)、広嗣は九州で時の橘諸兄政権に対して反乱を起こした。
「奸臣(かんしん)玄ムと下道(吉備)真備と排除せよ!」
が、彼の言い分は聞き届けられず、朝廷軍に敗れた彼は逆賊として処刑された。
広嗣の弟たちは離散した。
六弟・綱手(つなて)は兄とともに処刑され、次弟・良継(よしつぐ。宿奈麻呂)は伊豆へ、五弟・田麻呂(たまろ)は隠岐へ島流しにされた。
幼かった百川は、処罰は免れたものの、逆賊の弟としていじめられたことであろう。
当然、出世にも影響があった。
藤原四家のうち、他の三家の子弟が次々と出世していく中、式家の兄弟たちだけが取り残されたのである。
「今に見ろ」
それだけに百川の野心は強かった。
「今に式家兄弟は亡き兄の無念を晴らし、天下を取るのだ!」
良継と田麻呂がようやく並んで参議に列することができたのは、恵美押勝の乱後、神護景雲二年(768)のことである。
百川の参議就任は少し後だが、彼は道鏡にこびへつらい、左中弁・中務大輔(なかつかさのたいふ。天皇秘書官)・右兵衛督(うひょうえのかみ。皇居警備隊長)・河内大夫(かわちのだいぶ。河内職長官。大阪府東部知事)など、多数の要職を兼任、いざというときのための資金を貯めていた。
そして、いざというときはやって来た。
称徳天皇が没したのである。
右大臣・吉備真備は、皇太子候補として長親王(ながしんのう。長皇子。天武天皇の皇子。「亀虎味」参照)の王子・文室大市(ふんやのおおいち。「天皇家系図」参照)を推した。
これに左大臣・藤原永手以下も賛同したため、皇太子は大市に決まるかに思われた。
が、百川はおもしろくなかった。
「兄広嗣の天敵真備が推した天皇など、絶対に実現させてたまるものか!」
百川は動いた。
永手や縄麻呂や浜成ら、他の藤原三家の有力者を説得して回った。
「このまま真備の思うがままにさせておいていいのですか? 真備は藤原氏を目の敵にしています。藤原四家の滅亡を願っているんですよっ」
当然、ゼニも動いたことであろう。
永手たちは心動かされた。
手ごたえを確信した百川は、称徳天皇の遺勅(いちょく。遺書)を偽造、大いに騒ぎ立てたのである。
「あっ! こんなところに先帝の遺勅が見つかりました! おおっ! これには『皇太子は白壁王にせよ』って書いてあるよ!」
永手らは口々に言った。
「遺書があっては仕方がないねえ」
「白壁王卿に決まりだね」
「パチパチパチ!」
真備は激怒した。
「突然亡くなられた先帝に、遺勅などあるはずがないではないか!」
「だって、あるんだから仕方がないじゃないか」
「ねえ」
「うん。これはちゃんと先帝の字だ。間違いない!」
「それとも右大臣公こそ、遺勅の存在に気付いていながら中納言卿(大市)を推したのではないか?」
「悪いお方ですねー。皇位を奪おうとした道鏡(「女帝味」参照)と一緒ですねー」
真備は追い詰められた。
「なっ、なんじらっ!
みんなして謀ったな!」
真備は右大臣を辞職、以後、逃げるように政界から姿を消した。
百川は長兄のカタキを取ったわけである。