2.豪快に登場

ホーム>バックナンバー2022>令和四年2月号(通算244号)ユメ味 生月鯨太左衛門2.豪快に登場

雷電以来の御嶽海
1.豪快に誕生
2.豪快に登場
3.豪快に退場

 要作は食っちゃ寝食っちゃ寝でぐうたらに育った。
 大きくなりすぎたため体がだるいのか、仕事をしようともしなかった。
 多七がクジラ漁に連れて行こうとしても、
「クジラは他人とは思えない。仲間を殺すなんてかわいそうだよ!」
 駄々をこねて漁船に乗ろうとしなかった。
 他の漁師に、
「要作も漁につれていけばいいじゃないか」
 と、言われると、多七は、
「あんなでかいヤツを乗せたら、船が沈んじまうぜ」
 と、冗談を言ってごまかしていた。

「生月島にスゲーでかい少年がいるそうな」
 うわさが広まると、大坂相撲からスカウトが来るようになった。
「大坂で力士になりませんか? もうかりまっせ」
 両親は乗り気ではなかった。
「うちの子はでかいだけで相撲は強くありません」
「そうですよ。たくさん食べるだけで何の努力もしない子なんですよ。強くなんかなれませんて」
 それでも、要作の規格外のデカさを見ちまったスカウトはあきらめなかった。
「別に強くならなくてもいいんですよ。看板力士という手もあります」
「カンバンリキシ?」
「ええ、取り組みはせずに土俵入りだけをする力士です。看板力士なら大柄で見栄えがするだけで務まるんですよ」
「それじゃあ相撲じゃなくて、ただの見世物じゃないですか」
 両親は渋ったが、食い扶持
(ぶち)が減るのは嬉しかったので、小野川喜平次(おのがわきへいじ)という親方に入門させることにした。

 しかし、この話を平戸藩主・松浦煕が聞きつけた。
「生月島の怪童が大坂相撲に入門したというではないか」
 煕は領主だけに、要作のうわさは以前から聞き知っていた。
「活躍するなら大坂より江戸がよい。要作を藩のお抱えにして江戸に差し向けよ」
 煕は要作に「生月鯨太左衛門」という四股名
(しこな)を与えて江戸相撲に送り出した(大坂相撲での四股名は「生月鯨吉」のようである)
 同郷肥前出身の元大関・玉垣額之助
(たまがきがくのすけ)に入門させたのである。

 生月は天保十五年(1844)十月場所から嘉永三年(1850)三月場所まで十三場所に出場した。
 が、そのほとんどは取り組みをせず、土俵入りだけで出ていた。
「生月には致命的な欠点がある」
 気づいた玉垣が出場させなかったのであろう。
 それでも、ただその超巨漢が出てくるだけで江戸の人々は熱狂した。
「でかっ!」
「まるで岩のようだ!」
「それでいて甘い顔つきなのよね〜」
 浮世絵師たちも飛びついた。
「コイツはネタになる!」
 歌川国貞
(当時は豊国)ら有名絵師も生月の姿を錦絵にして売り出したという。

 人々は勝手に生月の強さを妄想した。
「あんなでかい手で突っ張られたら、どんな力士も吹っ飛ぶだろうな」
「あの巨体で寄り切られたら、ひとたまりもない」
「高所からの投げは、さぞや豪快だろう」

 膨らむ妄想が数々の逸話を生み出した。
「生月はわずか三歳で軽々と臼を持ち上げたそうな」
「五歳で銭百貫五十把を持ち上げたそうな」
「七歳で米俵を買って担いで帰ったそうな」
「十四歳で初めて独りでクジラを仕留めちゃったそうな」
「大物がかかったと思って網を手繰り寄せて引き揚げたら、魚じゃなくて漁船だったそうな」
「港に帰ってきた漁船の水抜きは、船体をひっくり返せば早いそうな」
「志々伎神社上宮にある重い石祠
(せきし)を山頂まで運んだのも彼だそうだ」
「硬い秋桃の皮を、まんじゅうの皮をむくみたいにむいていたそうな」
「大勢乗った船と綱引きして勝っちまったこともあるそうな」

 生月は唯一、弘化三年(1846)の十月場所だけ取り組みを行った。
 この場所は玉垣が勧進元だったので、試しに相撲を取らせてみたのである。
 ただし、対戦させたのはみな幕下力士であった。
 当時は一場所十日制であった。

弘化三年十月場所 成績 対戦相手
初日
二日目 遠ノ海
三日目 倶利伽羅
四日目
五日目 三立山
六日目 広ノ海
七日目 一力
八日目
九日目
十日目

 この場所の成績は、表の通り三勝二敗五休である。
 相撲内容は不明だが、広ノ海が生月の「致命的な欠点」に気づいたと思われる。
 それは、
「足を狙えばたやすく崩れ落ちる」
 ではなかろうか?
 生月が同じように連敗したところで、すかさず玉垣が休ませたのであろう。
 この場所以降、彼が相撲を取ることは二度となかった。

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