4.大浦為信vs近衛前久 | ||||||||||||||
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大浦為信も、南部信直が豊臣秀吉に臣従し、諸大名と親しく交わっていることは知っていた。
「おれも上洛して秀吉の臣下にならねば」
それは分かっていたが、地理的な理由でできなかった。
何しろ津軽から上洛するには、敵国である南部領か秋田(安東)領を通るしかないからである。
「強行突破だ!」
為信は何度も挑戦したがかなわなかった。
秋田領を通れば秋田実季(さねすえ。安東実季。愛季の子)にじゃまされ、南部領を通れば信直の手の者に殺されかけ、海路を行けば暴風でふっ飛び、蝦夷地まで流される始末であった。
為信はあせった。
「何だよクソッ!こんなことをしていれば、ますます立場は悪くなるばかりだ!」
中央からこんなうわさが流れてくるようになった。
「関白殿下はいまだに上洛しない関東の北条や奥羽のザコどもにお怒りじゃそうな」
「近々、小田原(おだわら。神奈川県小田原市)攻め(「変化味」など参照)が始まるそうな」
「ついでに奥羽のザコどもも成敗されるそうな」
為信は嘆いた。
「もうだめだ!終わりだ!どの道今さらおれが秀吉に頭を下げに行ったところで、秀吉と仲良しの、前田利家や徳川家康らとも仲良しの信直の訴えで領地を没収される運命なのだー!」
沼田祐光が励ました。
「あきらめることはありません。友好的な人というものは、友も多いですが、敵もまた多いのです。友を増やそうとすると、それに伴って敵も増えていることに気づいていないものです。敵の敵は味方になるんです!利家がなんですか?家康がなんですか?彼らをよく思っていないあの武将と結びなされ!そうすれば、誰も手出しはできません」
「あの武将?利家や家康よりすごい武将がいるのか?」
「秀吉第一の腹心・石田三成ですよ」
「ああ」
為信は明るくなったが、即消沈した。
「しかし、誰と結ぶにせよ、上洛しなければならないことにかわりはない。それができないから困っているのだ」
「秋田と結びなされ。そうすれば都までの道は開けます」
「おお、その手があったか」
この頃、秋田領では同族間の内紛が起こっていた。
そのため、ちょうど実季も有力な味方が欲しかったのであった。
「これはいい。渡りに船だ」
ほどなく実季の娘が為信の長男・信建(のぶたけ)に嫁すことが決まり、両家の講和が成立した。
天正十七年(1589)、為信はまず、家臣・八木橋備中(やぎばしびっちゅう)を上洛させて秀吉に臣従を誓った。
このとき備中は三成に会い、策を授けられたのかもしれない。
「すでに南部は諸大名に手を回しています。これを覆すのは容易ではありませんが、手がないわけではありません。近々、関白殿下は小田原攻めを行います。まずはこの戦で南部に先んじて参陣することです。それと、家系を利用することですね。聞くところによると、大浦家はさる名家の末裔とか?これを利用しない手はありませんよ」
翌天正十八年(1590)、為信は信直に感づかれないよう、わずか十七騎の家来だけを連れて上洛し、元関白・近衛前久(このえさきひさ)に会った。
「お久しぶりです、お父様!扇(おうぎ)です!」
扇とは、為信の幼名である。
ズラズラ並べられた津軽や蝦夷地の珍しい山海のお土産たちに釣られてヒョイヒョイ顔を出してきた前久は、為信の顔を見ていぶかしがった。
「はて?マロにはこのようなむさい男から父親呼ばわりされる記憶がないが」
「やだなー。お忘れですか?お父様〜。あれは永禄年間のことですから、もう二十数年前になりましょうか?当時北国を訪れていたお父様と私は猷子(ゆうし)の契りを結んだじゃありませんか〜。私の祖父政信が近衛尚通公の隠し子だという縁で、いろいろと学問や和歌を教えてくれたじゃないですか〜」
「はてはて?」
前久は思い出せなかった。
確かに永禄年間に北国へ下ったことはあったが、覚えているのは越後まで、それより北に行った記憶がないのである。
為信は号泣した。
「よよよ……。まさかまさか、お父様はかわいいかわいいこのヒゲ面の息子の顔を忘れてしまったんですか?幼くして実父をなくした私は、お義父(とう)様のことを本当のお父様のようにずっとずっとお慕いしておりましたのにぃ〜。これからは定期的に津軽や蝦夷地の珍しいお土産をお届けいたそうと思っておりましたのにぃ〜」
泣きながら為信は、さっさとお土産を片付けて帰ろうとした。
「待ちゃれ!」
前久はあわてた。今一度首を傾げ、よく考え直してみた。
「はてはて?そういえば、そのようなこともあったような〜。あってもおかしくないような〜。いやいや、確かにあったと思うぞよぞよ」
「さすがはお父サマァ〜。息子はうれしいですぅ〜」
為信は前久から藤原姓を名乗ることを許された。
近衛家の家紋「近衛牡丹(ぼたん)」によく似た「杏葉(きょうよう)牡丹」の家紋を使うことも許されたのである。
「しめしめ」
為信は小田原へ下った。
近衛家ソックリの家紋を見せびらかしながら秀吉の陣に参じた。
秀吉はあっさりと為信の津軽地方の本領安堵を認めた。
「ほー、大浦殿は近衛家ゆかりの者か?」
「はい〜。隠し子の子孫なんです〜。――ところで、殿下にも隠し子はおありで?」
「おっほーん!――いてもおかしくないのにのう〜」
秀吉は前久の猷子として関白になった男である。「義兄弟」の言い分が聞き届けられないはずがなかった。
時に天正十八年(1590)三月二十七日。
これ以後、為信は大浦姓を改め、津軽為信と名乗った。