6.津軽為信vs津軽信建

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6.津軽為信vs津軽信建

 慶長三年(1598)八月、豊臣秀吉が死ぬと、慶長五年(1600)に天下を二分する大乱が起こった。
 御存知、関ヶ原の戦である
(「変節味」参照)
「豊臣につくか?徳川につくか?」
 選択を迫られた津軽為信は、徳川方を選んだ。
「この戦は家康の勝ちだ。津軽は勝つほうに味方する」
 ところが、為信の長男・津軽信建
(のぶたけ)が反発した。
「お待ちください!今の津軽家があるのは豊臣家のおかげです!亡き太閤
(たいこう。秀吉)殿下の御威光と、石田三成殿の尽力があったからではないですか!私は豊臣方につきます!」
 三成は信建の烏帽子
(えぼし)親である。また、彼は早くから摂津大坂城(大阪市中央区)豊臣秀頼に小姓として仕えていたため、豊臣びいきであった。
 為信はかえって喜んだ。
「それはいい。親子兄弟が両軍で別れて戦えば、どちらが勝ったとしてもどちらかが生き残るというわけだ。信枚
(のぶひら。信牧。為信の三男。陸奥弘前藩二代藩主)も徳川方だ」
 信建は悲しんだ。
「父には君臣の義がないのですか?家族の愛はないのですか?あるわけないですよね?父は決して家庭を顧みることなく、謀略のみに生きてきましたから」

 信建は大坂城へ向かった。
 そして、敗れて帰ってきた。
「ただいまー。敵ですから、帰ってこられては迷惑ですか?」
 為信は否定した。
「お前は大坂城にいただけで戦闘に参加していない。何ら家康に対して後ろめたいことはない。今までどおりの付き合いだ」
 信建はフッと笑って聞いた。
「では、彼らはどうですかね?」
 彼は見知らぬ少年少女を連れてきて紹介した。
「こんにちは〜」
「はじめまして〜」
 為信はいぶかしがった。
「誰だね、この子たちは?」
石田三成殿の次男・重成
(しげなり)君とその妹の辰姫(たつひめ)ちゃんですよ」
「うえっ!なんだってえーーー!!」
 為信は仰天した。
「おまえ、いったい何を考えているんだぁー!?」
「決まっているじゃないですか。父が津軽でかくまうんですよ。では、私はとっとと大坂へ帰りますので」
「やめろー!こんなヤツらを置いていかれては迷惑だー!家康に突き出すぞっ!」
「えーん」
「ひーん」
 重成と辰姫はそろって泣き出した。
「ウソだウソだ。そんなことしないよーん」
 とりあえず為信は二人をなだめたが、信建を呼び止めて小声で脅した。
「お家のためだ。あの二人は本当に家康に突き出す」
「さーて。父上にそれができるでしょうか?」
「できるに決まっているではないか!おれは成り上がるためには手段も選ばない謀略三昧
(ざんまい)に生きてきた血も涙もない男なのだぞ!このままあいつらを手元に置いておけば、今まで築き上げてきたものがすべて水泡に帰してしまうのだぞ!そんなことができるはずがない!お前だってそうだ!大坂には帰るな!豊臣は徳川によっていずれつぶされる運命なのだ!お前ももう豊臣とは縁を切るのだ!さもなくば、お前に将来はない!」
「ほー、血も涙もない父上が、私のためにお気遣いですか?ありがとうございます〜。しかしながら私は、生涯豊臣家の家臣として生きたいと思います。義のために愛のために生きたいと思います。私は父のように長いものに巻かれる男にはなりたくはありませんゆえ」

 信建は去っていった。
「困った息子だ。まあ、義とか愛とか言っていられるのは若いうちだけだ。年をとれば次第に世の中の仕組みというものが解ってくるであろう」
 いつの間にか重成と辰姫が、両側から為信のボーボーヒゲを引っ張って遊んでいた。
「スゲーなこのヒゲ!」
「おもしろーい!」
 為信は思わず顔が緩んでしまった。
「なれなれしく触るな!あっち行けっ!」
 追っ払ってはみたが、怒ってはいなかった。
(まあ、家康にバレなければ何も問題はないわけだ。そうだ。おれは野心家なのだ。可能性は低いが、豊臣が徳川を倒したときにはあいつらを利用できるわけだ。フッフッフ。これはいいぞ。なーに、バレるはずがない。誰もこのことは知らないんだから)

 が、なぜかバレてしまった。
 江戸へ行ったときに徳川官界のボス・本多正信
(ほんだまさのぶ)に呼び止められてしまった。
「これこれ、津軽殿」
「なんでしょうか?」
「津軽に石田三成の息子や娘がかくまわれているといううわさがあるが」
「……!ウヘン!ゴホン!」
「まさかと思うが、ただのうわさであろうな?」
 為信は不自然に笑った。
「ブホヒッ!あったり前じゃーないですかぁー!私のような長いものにはグルグル巻き男が、そのような危ない橋を渡るはずがございませーんて!」
 正信も笑った。
「そうであったな。津軽殿に限って、そのような大それたことを考えるはずかあるまい。失敬失敬」
 正信は何度も何度も振り向きながら、笑って通り過ぎていった。
 為信は胸をなでおろした。
(危なかったー。本多正信、コワッ!)
 後年、重成は杉山八兵衛
(すぎやまはちべえ)と名を改めて侍大将になり、辰姫は津軽信枚と結婚し、信義(のぶよし。弘前藩三代藩主)を生んでしまうのであった。

 慶長十二年(1607)、為信は発病した。
「どうやらおれも長くはないようだ」
 見舞いに来た重成が伝えた。
「京都から知らせがありました。信建様も御病気で、もはや長くないと」
 大坂城に詰めていた信建は、名医を頼って京都で養生していたという。
「何。あいつも長くないのか……」
 重成がしみじみと語った。
「信建様は私の父が処刑された後、こう私を慰めてくれました。『実は、私の父もいないんだよ』と。後年、私は信建様の父親が為信様だと知り、『いらっしゃるじゃないですか〜』と申し上げました。すると、信建様はこうおっしゃいました。『私は父に捨てられたんだよ。いないと同じじゃないか』と」
 為信は愕然
(がくぜん)とした。
 思えば信建は、為信のいい道具であった。
 父の命令で秋田実季の娘と婚約し、父の命令で豊臣秀頼に仕え、父の命令でキリスト教にも入信した。すべては父の野望のためであった。
 にもかかわらず、関ヶ原の戦では形ばかりではあったが、敵味方に分かれて戦った。
『私は父に捨てられたんだよ』
 彼はポイ捨てされたと思ったのであろうか?
 為信は泣いた。号泣した。そして、むっくり起き上がった。
「そうだ!京都に行こう!」
「え?そのお体で?」
「うん。信建の見舞いに行く」
 重成が止めた。
「やめてください!死にますよっ!」
「死んでもいいではないか」
「そこまでして、何のために?」
「何のためだと……」
 為信は思わず笑った。
「お前はおれがおれらしくないとでも言うのか?」
「……」
「義のかけらも愛のかけらもないこのおれに、似合わないとでも言うのか?」
「……」
「おれは、それを、ずっとずっと隠してきただけなんだよ」
 重成は泣いた。
 為信も涙した。
 重成はもう止めなかった。

 十月十三日、信建は京都で死んだ。享年三十四。
 為信は死に目に会えなかったが、彼もまた、十二月五日に京都で亡くなった。享年五十八。


※ 為信の決起には、南部氏の家督争い(南部晴政・晴継父子らvs石川高信・南部信直父子・北信愛ら)が関係しているとみられます。
※ 関ヶ原の戦で為信は徳川方として美濃大垣
(おおがき。岐阜県大垣市)城攻めに加わったとされていますが、実際は信枚が家康本陣に参じた模様です。

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