2.陥落!二俣城の戦!! | ||||||||||||||
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「だめだ。徳川軍だけではとても歯が立たない〜」
徳川家康は織田信長に援軍を要請した。
信長も浅井(あさい・あざい)・朝倉(あさくら)軍その他大勢と戦っているため(「大雪味」参照)それどころではなかったが、それでも佐久間信盛(さくまのぶもり。近江永原城主。「鼓舞味」等参照)・ 滝川一益(たきがわかずます。伊勢長島城主)・平手汎秀(ひらてひろひで。政秀の子)・林通勝(はやしみちかつ。佐渡守)・水野信元(みずののぶもと。三河刈屋城主。家康の伯父)ら三千の援兵を遣わしてきた。
「武田軍に援軍の通り道を遮断されてはかなわない」
家康は浜名湖上の要地にある宇津山城(静岡県湖西市)を松平清善を守らせ、援路を確保した。
一方、武田軍は北に転じ、匂坂城(さきざかじょう。向坂城。磐田市)を落とすと、馬場隊に浜松方面をにらませておき、二俣城(城主・中根正照、援将・松平康安)を包囲した。
二俣城は天竜川と二俣川に囲まれた交通の要衝で、天高くそびえる岸壁の城である。
「いくら信玄でも、二俣城は容易に落とせまい」
家康には自信があった。
「何とか信長殿の援軍が来るまで持ちこたえてくれ。そうすれば助けに行くからな」
信玄は息子・武田勝頼を総大将として二俣城に猛攻を加えさせたが、なかなか落ちそうになかった。
そのうちに三河方面軍・山県昌景隊も信玄本隊と合流、攻囲の武田軍は三万(または二万五千)に膨れたが、状況は変わらなかった。
勝頼は激怒した。
「なぜ落ちないのだ!」
勝頼は短気であるが、バカではなかった。
「これだけ崖(がけ)の城だ。川から水を汲むのに苦労しているであろう。水を汲んでいる場所を探し出せ!
水を断てば落ちるぞっ!」
調査の結果、櫓(やぐら)の一つから水を汲んでいることが明らかになった。
勝頼はニヤリとした。
「上流からいかだを汲んで流しまくれ! 櫓にぶつけて破壊するのだっ!」
武田軍はいかだを流しまくった。
櫓は初めのうちは耐えていたが、絶え間ないローキックの連発に次第に傾斜、最後は砂上の楼閣のようにもろくも崩れ落ちた。
「ああ!
水櫓がー!」
城兵は落胆し絶望、十二月十九日、城主・中根正照は開城し、武田軍に生け捕られた。
このときの水櫓(井楼)を復元したものが近所の清滝寺にあるという。