3.決戦!三方原の戦!! | ||||||||||||||
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「二俣城、陥落しましたー!」
徳川家康は悔しがった。
「うう、間に合わなかったか……」
佐久間信盛・平手汎秀ら織田信長からの援軍が到着したのは、二俣城陥落の三日後、二十二日のことである。
「武田軍、天竜川を渡河ー!」
「武田軍、秋葉街道を南下中ー!」
「浜松城に向かっていまーす!」
敵の行軍はすでに報告を受けるまでもなく、眼下に見えるまでになっていた。
酒井忠次は眼下を見やりながら感心した。
「それにしてもさすがは天下の武田軍、大迫力ですな。あ、あれは山県昌景の赤備え部隊!
ほおー。鮮やかで整然としてますなー」
家康はほざいた。
「ふん。その整然は我が軍がぶっ壊すためにあるのだ! みなの者、身構えよーっ!」
が、武田軍は浜松城には攻めてこなかった。
西に急転して三方原に向かったのである。
家康は不思議がった。
「どういうことだ?」
忠次は苦笑した。
「素通りということですな」
「なんてことだ!
敵はここにいるんだぞっ!」
「武田軍にとって、我々は敵ではないと」
「バカにしやがって! 目に物見せてやる! 馬を引けー!
出陣じゃー!」
「短気になってはなりませぬ! 武田軍は三万、徳川軍は八千、織田の援軍合わせても一万一千ですぞ! まともに戦って勝てる敵ではありませぬ!
冷静になりなされ!」
「わしはいつでも冷静だ。戦は数の問題ではない。地の利は我らにあるのだ! こちらに有利に地形に誘い込めば、必ず勝てるのだ! ここで戦わなければ、我々はきっと後悔することになるであろう! 信長殿にも示しがつかず、今まで死んでいった者たちにも申し訳立たないであろう!」
「いいえ、これはワナかも知れませぬ。もう少し様子を見るほうがいいかと」
佐久間信盛も反対した。
「信長様は籠城(ろうじょう)せよ言われました。現にこの通り、信玄と決戦できるほどの援軍は遣わしておりません」
家康は言った。
「ほう。佐久間殿も武田軍を無傷で岐阜まで向かわせたほうがいいと申されるのかっ?」
「いいえ。私ももう少し様子を見たほうがいいかと……」
「かつて信長殿は上洛する今川義元を一撃の下に討ち果たしたではないか!(「最強味」参照) 自軍の十倍もの大軍に完勝したではないか! 戦いは数ではないっ! 時の運じゃー!
戦って負ければ死ぬだけだ! が、戦わなければ臆病者として後々まで伝えられるのだぞ!
死んでから後も延々と語り継がれることになるのだぞっ! お前たちはそのほうがいいと申すのかっ!
わしは嫌じゃ! わしは臆病者ではない! 勇敢なのだっ! わしは戦うぞ! わしは戦うのじゃー!!」
忠次はあきらめた。
「殿がそこまで申されるのであれば、家臣はただ従うのみでござる」
佐久間も同じた。
「是非もございませぬ。我らが少しでも敵に損害を与えておけば、後々信長様も戦いやすくなることでしょう」
家康は出陣した。
夏目吉信(なつめよしのぶ。次郎左衛門)などごく少数だけを城に残し、徳川・織田連合軍一万一千ほぼ全軍を率いて三方原に向かった。
その頃、武田軍は三方原の祝田坂(ほうだのさか。浜松市)を上っていた。
「追え!
坂を背にすれば勝てる!」
中国の軍学書『孫子(そんし)』にもある戦いの常道である。
つまり、武田軍が坂を越えたところで攻撃を加えれば、徳川軍は坂を背に有利に戦えるようになるわけである。
が、武田信玄は百戦錬磨であった。
家康の動きを知ると、坂の途中で行軍を止めてしまった。
つまり、武田軍が逆に坂の背を取ったわけである。
「武田軍、止まりました!」
「チッ!
見破られたか!」
武田軍が振り向いて止まったため、徳川軍も止まらざるをえなかった。
家康は軍を「鶴翼(かくよく)の陣」に構えた。鶴が翼を広げるような横長の陣形である。
「徳川軍、『鶴翼の陣』を布(し)きました!」
信玄は笑みを浮かべた。
「家康は若いのう。『鶴翼』は敵を包み込むときに使う陣形じゃ。大軍相手に構える陣形にはあらず!」
武田軍は「魚鱗(ぎょりん)の陣」に構えた。魚の鱗が連なるような縦長の陣形である。
第一陣(先鋒)は山県昌景・小山田信茂(おやまだのぶしげ。甲斐谷村城主)ら、第二陣は馬場信房・武田勝頼ら、第三陣が信玄本隊で、第四陣(後陣)が穴山信君(あなやまのぶきみ。後の梅雪。甲斐下山館主。「穴雪味」等参照)らであった。
両軍はしばらく見合っていたものの、武田軍の挑発の投石により戦端は開かれた。日暮れ前、現在の午後四時頃のことである。
「徳川軍中央の石川数正隊、小山田信茂隊に攻めかかりましたー!」
「左翼の本多忠勝・大須賀泰高(おおすがやすたか。五郎左衛門尉)隊ら、山県昌景隊を攻撃ー!」
「徳川軍の布陣は中央に石川数正隊など、左翼に本多忠勝・榊原康政(さかきばらやすまさ。式部大輔)・大久保忠世(おおくぼただよ。七郎右衛門)隊など、右翼に酒井忠次・小笠原長忠(おがさわらながただ。遠江高天神城主)及び、佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀ら織田の援軍たち!」
信玄は叫んだ。
「ならば右翼が弱い。右翼をねらえ!」
信玄は采配を振った。
とたん、武田軍は「魚鱗の陣」から「車懸の戦法」に転じた。
川中島の戦で上杉謙信が採った超攻撃型戦法である(「 撤退味」参照)。
酒井・佐久間隊はあせった。
「うわ!
新手が大勢押し出してきたぁー!」
「馬場の最強騎馬隊じゃないかぁー!」
「こりゃかなわん〜!」
右翼の諸部隊は総崩れになった。
忠次も佐久間も敗走し、小笠原長忠隊も逃走した。
「佐久間殿、待ってくれぇー!」
平手汎秀も必死で逃走、浜松城に入ろうとしたが入れず、おろおろ逃げ回っているうちに稲葉(いなんば。浜松市)で敵に取り囲まれて討ち取られてしまった。
「痛い〜。手がない! 足がない! 首もない〜!」
「酒井・佐久間隊敗走ー!」
「石川・小笠原隊撤退ー!」
「平手汎秀殿、討ち死にー」
家康はつめをかみかみ悔しがった。
「何をしているのだ! 逃げるな! 持ちこたえろー! 逃げる者は後世まで臆病者だとののしられ続けるんだぞーっ!
貴様ら、それでもいいのかーっ!」
「本多隊奮戦、山県隊を押し戻しましたー!」
「馬場信房・武田信豊(のぶとよ)・内藤昌豊(ないとうまさとよ)ら、本多・榊原隊を猛攻ー!」
「ああ、榊原隊、もうダメー!」
「勝頼隊、本多隊の横を突きましたー!」
「本多隊敗走ー!」
「殿もお逃げくだされー!」
家康は嫌がった。
「嫌だー!臆病者は嫌じゃー!」
家康本陣にも、刃物を振り回す物騒な武田軍が乱入してきた。
「見つけたぞ、家康っ! あの世へようこそーっ!」
「嫌だー! 死にたくねー! あっち行けぇー!」
「行けと言われて行くヤツがいるか!
そーれ、みんなでやっちまえー!」
家康の側近・成瀬正義(なるせまさよし)は死を覚悟した。
「殿ー! われらが血路を開きまするー。お逃げくだされーっ!」
「嫌だー!嫌じゃー!」
「やかましい! 駄々は城へ帰ってからこねられよっ! 殿を頼むぞーっ!」
正義は弟・成瀬一斎(いっさい)に家康を託すと、群がる敵の中に切り込んでいった。
「正義死すとも正義(せいぎ)は死なずー! ぐわぁぁぁぁーーー!!」
家康は涙をのんで退却した。
「悔しいよう〜」
武田軍は追撃はすさまじかった。
「殿を守れー!」
「ここからは一歩も通さぬー!」
乱戦の中、本多忠真(ほんだただざね。忠勝の叔父)・鳥居忠広(とりいただひろ。元忠の弟)らも戦死した。
浜松城から急遽(きょうきょ)駆けつけた夏目吉信も、
「われこそは徳川三河守家康なりー! 雑魚ども、討ち取れるものなら討ち取ってみろぉー!」
と、家康の身代わりになって死んでいった。
家康は逃げた。振り向きもせず逃走した。
「ううう、お前たちの死は無駄にはせぬぞー!」
いつの間にか単騎になっていたが、必死で逃げた。
でも、追っ手はしつこかった。
「待てー! 家康みたいな落ち武者ーっ!」
家康は民家の陰に隠れた。馬をつなげてすばやく鎧(よろい)を田んぼに脱ぎ捨てると、手ぬぐいをかぶって百姓のフリをして畑を耕し始めた。
追いついた追っ手が気づかずに家康に聞いた。
「おい。今ここに家康みたいな落ち武者が来なかったか?」
「はえ〜。なんぞ言うたきゃ〜?」
家康はとぼけた。適当な方向を指して教えてあげた。
「そういえば、そんなような人があっちのほうに行ったずらー」
「そっか。ありがとな、変な百姓」
追っ手は礼を言って去っていった。
「しめしめ、うまくごまかせたぞ」
これが「よろい田」として残っている伝承である。
追っ手が見えなくなると、家康は再び馬に乗って逃げた。
逃げているうちに腹が減ってきた。
茶店で小豆餅(あずきもち)を売っているのが見えた。
たまらず家康は馬から飛び下りてむさぼり食べた。
「ああ、どえりゃーうみゃー!」
夢中食っている最中、追っ手の姿が目に入った。
見覚えのある、さっきの追っ手であった。
追っ手は家康に気づいたようで、うれしそうにこっちに近づいてきた。
「やばっ!」
家康は馬に飛び乗った。
「待てー!」
追っ手は追いかけてきた。
追っ手は徒歩だったが、ものすごい速さで追いかけてきた。
「待つもんかぁー!」
家康は振り向きもせずがむしゃらに逃げ続けた。
「待たんかー!」
でも、追っ手は超人的に足が速かった。しばらく並走すると、家康の馬を追い抜いてしまった。
「ドロボー!
モチ代を払っていかんかコラーッ!」
追っ手は絶叫した。振り向いてみると追っかけてきたのは追っ手ではなく、小豆餅を出した茶店の老婆であった。
「あ、す、すまん」
家康はホッとして観念してモチ代を払ってやった。
家康が小豆餅を食べた場所には「小豆餅」、銭を払った場所には「銭払」という地名が現在でも残っている。その間二キロ弱あるので、老婆は馬で逃げる家康を二キロも徒歩で追いかけてきたということになる。家康の天下盗りの執念も恐るべきものだが、この老婆の執念もまたすさまじいものである。食い物の恨みほど恐ろしいものはないということであろう。
家康は逃げた。
浜松城が見えて来た。
忠次が出迎えていた。
「お、殿!
御無事でっ!」
家康は安心した。
安心感がシリに直結した。
恐怖と緊張いう重石が一気に体中から抜け出していくようであった。
家康は馬から下りた。
もわ〜んと何かがにおった。
忠次は変に思った。
家康の馬の鞍に、何か異様な物体が鎮座ましましていることに気がついた。
忠次はそれをつついてみた。かいでみた。そして、ソイツの正体を知って大笑いした。
「殿! なんですかこれはっ! いわゆるその、クソじゃないですかーっ! ワッハハッ!
恐怖の余り、脱糞(だっぷん)なさいましたなー!」
忠次は大笑いした。
家康は真っ赤になって言い訳した。
「それはクソではない!
ミソじゃ!」
「へーへへッ! ミソならミソ汁にして差し上げましょうかぁ?」
「作ってもいいが、お前が食えよ! 一滴も残さず食うんだぞっ!」
忠次はツボにはまったようで、笑いが止まらなかった。
「ヒーッ! ヒーッ!
御勘弁をぉ〜。死ぬー!
死ぬーっ!」
なお、クソを発見した家臣については大久保忠世(おおくぼただよ)や鳥居元忠(とりいもとただ)だったという異説もある。
家康は湯漬けを三杯かき込むと、そのまま横になって眠ってしまった。
「城門、閉めましょうか?」
門番に聞かれた忠次が言った。
「開けておけ。まだ帰ってくる味方がいるであろう」
「でも、このままじゃ敵も入ってきますよ」
「大丈夫じゃ。開け放って派手に篝火(かがりび)をたいておけ」
しばらくして、武田軍が浜松城に来襲した。
が、開けっ放しの城門を見ていぶかしがった。
「これはどういうことだ?
まるで我々を歓迎しているようではないか」
しかも太鼓の音まで鳴っている。忠次がたたいているのだ。
馬場は用心した。
「家康には何か作戦があるのでは?」
山県は笑い飛ばした。
「ハッタリであろう。攻めかかってもかまわぬ」
しかし高坂昌信(こうさかまさのぶ。虎綱)が制止した。
「これは家康の決死の覚悟を示すものでございましょう。相手にしないほうがよいかと」
結局、武田軍は浜松城を攻撃せず西上した。
この戦いで徳川・織田連合軍三百〜二千人の兵を失ったが、滅亡は免れたわけである。
三方原の戦惨敗直後、家康は憔悴(しょうすい)しきった自分のミジメな姿を絵に描かせている。
「わしはもう二度と負けぬ!」
このときの悔しさや失敗を、ずっとずっと忘れないために……。
[2006年2月末日執筆]
参考文献はコチラ
※ 近年では有名な「しかみ像」は三方ヶ原の戦当時のものではないとされています。