1.藩政改革 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2014>1.藩政改革
|
江戸時代の三大飢饉 |
享保の飢饉(大飢饉)…西日本 天明の飢饉(大飢饉)…東日本 天保の飢饉(大飢饉)…全国的 |
陸奥八戸藩は盛岡(もりおか。岩手県盛岡市)藩の支藩である。
寛文四年(1664)、江戸幕府は盛岡藩十万石を分割し、新たな盛岡藩八万石と八戸藩二万石を立てた。
二万石は表高(公称)で、実質は四万石の収穫高があった。
ただし、この藩には弱点があった。
四年に一度の割合で凶作に見舞われていたのである。
中でも天明の飢饉は、藩の財政を著しく窮乏させた。
八戸藩八代藩主・南部信真(なんぶのぶまさ)は困り果てた(「南部氏系図」)参照。
「誰か、この危機を救える者はおらぬか?」
家臣が推挙した者があった。
「拙者にお任せあれ」
野村武一という算術の名人であった。
「とりあえず、藩の収入を十倍にして見せましょう」
信真は武一に期待し、藩の財政再建を託した。
武一は後の軍記である。
彼が信真から「軍記」の名を与えられるのは天保元年(1830)のことであるが、この物語では以降「軍記」で統一する。
この頃、八戸に「北の紀文(きぶん。紀伊国屋文左衛門のこと。「豪遊味」「消費味」参照)」と呼ばれた豪商がいた。
十三日町(八戸市)に本店を構え、各所に支店を展開していた七崎屋半兵衛(ななさきや・ならさきやはんべえ)である。
野村軍記は、この豪商に目を付けた。
「七崎屋さん。あんた、カネ持ってますよね?」
「なっ、何ですか?藪(やぶ)から棒に」
「藩の財政は厳しい。いくらか援助していただけませんか?」
「何で私が?」
「ここ八戸であなた以上に生活に余裕のある人はいないんですよ〜。財政が潤えばお返しします。どうか藩に融資を」
「い、いくら出しゃいいんですか?」
「そーですね。ありったけですね」
「……」
「どうしました?カネというものはないところから集めることはできません。あなたほどの即戦力はほかにいないんですよ。ぜひぜひ藩のためにひと肌」
半兵衛は渋った。
「できませんね。実はこう見えて、うちもなかなか経営が苦しいんですよ〜」
「ほー。うわさでは、貴店の収入は藩の収入の十倍もあると聞きましたが」
「……」
「それでも貸すカネはないと申される?」
「うわさですって!真っ赤なウソですって!ホラ吹いて見得張ってるだけなんですよ!本当はビンボーなんですよっ!」
「分かりました」
「分かりゃいいんですよっ」
「では、店の財産を調べさせてもらってよろしいんですね?」
「!」
「ではでは、後日、改めて役人をよこしますので」
「後日ですか……。どーぞどーぞ。ホントになんもないですから」
「では、半月ほど後にまた」
「どーぞどーぞ」
軍記が帰ると、半兵衛は低い声で番頭に命じた。
「隠せ」
「はあ?」
「半月以内に店の財産すべてを隠し切るのだ!」
「分かりました」
「とりあえず二万両分を江戸へ運べ」
「がってん承知!」
番頭は店の者総出でたくさんの荷物をたくさんの船に積み込ませた。
そこへ突然、軍記が役人たちを率いて再登場した。
「何をしているのかな〜?あらら〜、お宝がこんなにいっぱい!」
「げ!もう来やがった!」
「もう来たんじゃなくて、続きに張り込んでたんですよ〜。こんなこともあろうかと思って〜」
「卑怯(ひきょう)な!」
半兵衛たちはうろたえた。
軍記は一喝(いっかつ)した。
「何が卑怯だ!者ども、この者たちを引っとらえろ!お宝もすべて没収だ!」
半兵衛はあきらめなかった。軍記に食い下がった。
「ちょっと待ってください!私たちがいったいどんな悪いことをしたと言うんですか?脱税したわけでも、泥棒したわけでもないじゃないですか!逮捕や財産没収の理由は何ですかっ!?」
「教えてやろう。お前たちは藩の禁令を犯した」
「禁令?」
「そうだ。藩の外へ財産を移動してはならないという禁令を破ったのだ」
「そんな禁令、聞いたことありませんが」
「そりゃそうだろう。ついさっきできたばかりの禁令だからな」
「そんな殺生な〜」
半兵衛の悲劇はこれだけにとどまらなかった。
後に藩から一万両の借金を頼まれたが、九千両しか貸さなかったことなどを理由に店をつぶされてしまったのである。
七崎屋の全財産は没収され、そっくりそのまま藩庫に収用された。
軍記は七崎屋が独占していた大豆(「大豆味」参照)を藩の専売制にした。
大野鉄山も藩営とし、諸産業を振興、新田開発も奨励した。
財源は当然、年貢の増税と新税創設であった。
しかし、商品をそろえても売れなければ意味はない。
そこで軍記が目を付けたのは江戸相撲であった(「相撲味」参照)。
当時の人気力士・四ヶ峰(よつがみね)らを八戸藩のお抱えにしたのである。
今でいえば人気スポーツ選手のスポンサーになったということである。
これによって八戸藩の知名度は上がり、江戸商人から大量に商品の注文が来るようになった。
力士は江戸での本場所のほかに大坂でも興行していたため、大坂商人からも注文が入るようになった。
商品とは、大豆のほかに、材木・漆器・魚の油・木炭などである。
これによって財政は潤い、文武館という学校を設立したり、馬場や弓道場を整備したりできるようになった。