2.稗三合一揆

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消費増税中止せず
1.藩政改革
2.稗三合一揆

 天保二年(1831)、野村軍記は中老兼側用人に昇進したが、また大問題が起こってしまった。
 今度は天保の飢饉が襲来してしまったのである。
 とりわけ東北地方の被害は甚大で、天保に入って以降、連年の大凶作になった。
 南部信真は心配した。
内にはもう米がないのではないか?」
 軍記は答えた。
「米はありませんが、カネは貯まりました」
「カネなどいくらあっても食うことはできぬ。すでに民には餓死者も出ている。事態は急を要する。他から米を買って民に配るがよい」
「分かりました。米は買いに行きましょう。しかしそれを民に配ることはできません」
「なぜか?」
「大凶作は来年も再来年も続く勢いです。のカネには限りがあります。カネを米に替えて民に配ってしまっては、来年以降が持ちません」
「では、どうすればいいのか?」
武士には麦を配ります。そして民は、稗
(ひえ)を食べてしのいでもらいましょう」
「ということは、米は買いに行かなくともいいのだな?」
「いいえ、米は買いに行きます」
「何のために?」
「運用に使うのです」
「運用だと?」
「はい。飢饉が続けば米は値上がりしますが、凶作に強い稗は値上がりしません。つまり凶作が続いたとしても、米を買っておけば運用益で民を食べさせていけるはずです」
「うーん、なんじの申すことであれば間違いあるまい」
 信真は役人たちを四方に飛ばして米を買いに行かせた。
 軍記も一万七千両を持って越後へ米の買い付けに行った。
 知らせを耳にして武士や民は喜んだ。
「御屋敷
(八戸城)のお偉方が各地へ米の買い付けに行っているそうだ」
「おらたちに配る米を買いに行ってくれているそうだ」
「ありがてえ!これで餓死しなくてすむ〜」

 米を積んだ船が着くという宮古浦(岩手県宮古市)に民が集まってきた。
「こめ〜、こめ〜」
「ごはん!ごはん!」
「ぎんしゃりっ!ぎんしゃりっ!」
 民は飢えていたが、期待でみな笑顔であった。

 が、待てども待てども米を積んだ船は来なかった。
 民の元気はなくなってきた。
「ごはんまだ〜?」
「腹減ったよ〜」
「もうダメ〜、意識も〜ろ〜」

 そんな時、お触れが出た。
「『民は一日三合の稗以外食うべからず』だってよ」
「『隠している米や麦や余分な稗は全部に差し出せ』だってよ」
「『味噌
(みそ)も没収』だってよ。ひでえ!ひどすぎる!」
 民は失望した。
 悪いうわさも広まった。
「野村様は民に米を配るつもりはないそうだ」
「では、何のために米を買いに行ったのか?」
「着服でしょ!」
 民の怒りはメラメラと燃え上がった。
「おらたちはいったい何のために重税に耐えてきたと思っているんだ!」
「困った時にに助けてもらうためだったじゃないのか!」
「それなのに、なんだあの野村軍記は!」
「おらたちが飢えているの横目に私腹を肥やすってか!」
「もとはといえば、全部おらたちから取り上げた年貢じゃないか!」
「何が『貧乏人は稗だけ食ってろ』だ!許せんっっっ!」

現在の八戸御屋敷(八戸城)周辺(青森県八戸市)

 天保四年(1833)末、大膳(だいぜん)なる者を頭目とした久慈(くじ。岩手県久慈市)百姓一揆が決起、右近なる者を頭目とする軽米(かるまい。岩手県軽米町)の百姓一揆を吸収し、翌天保五年(1884)正月に八戸御屋敷に押しかけた。その数、三千人に上ったという。
「一日稗三合生活反対!」
「こんなもんだけで生きられるわけねーだろ!死ぬぞっ!」
「お上は自分たちができもしないことを下々の者たちに強制するな!」
「ためしに言い出しっぺの野村軍記にやらせてみたらいい!」
「そうだそうだ!野村軍記に一日稗三合だけで暮らさせてみろ!」
「百姓のように畑仕事や薪
(たきぎ)ひろいもさせてだ!」
「お上が処分しないなら、おれたちがやる!野村軍記を差し出せ!」

 一揆は帰ってくれなかった。
 かえって軍太夫
(ぐんだゆう)なる者を頭目とする八浦の百姓一揆まで参加し、五千人余りに増えてしまったという。
 彼らは竹槍
(たけやり)や鎌などで武装し、雲霞(うんか)のように御屋敷を取り囲んだまま、連日士たちと小競り合いを展開した。
「守銭奴野村を出せー!」
「野村のごはんこそ一日稗三合だけで結構だ!」
「やれるもんならやってみろ!奥州一のバカ侍!」
 軍記はカチンときた。信真に申し出た。
「民は拙者を差し出せと申しております。拙者が出ていけば、彼らの怒りは鎮まります」
 信真は許さなかった。
「あんな所に出て行ったら命がないぞ」
「仕方ありません。拙者の不徳の致すところです。すべては拙者が民に稗三合での生活を強要したためなのです。どうか拙者を民に差し出すか、御処分をっ」 
「うぬぬ……」
 信真は決断した。
 軍記の中老兼側用人職を解くと、彼の親類・野村彦兵衛
(ひこべえ)の家での謹慎を命じたのである。

 彦兵衛は軍記を慰めた。
「何。ほとぼりが冷めれば、殿様はまた復職させてくださるであろう」
「すみません。拙者のせいでこちらにも御迷惑を」
「アハハ!わしんとこは構わんよ」
「御迷惑ついでにお願いがあります」
「何だ?」
「拙者への食事は、一日稗三合だけにしていただきたい」
「何じゃと?稗だけでは体が持たぬであろう」
「持たないことはありません。拙者はそれを民に強制したのです。拙者には稗三合だけでも生活できることを証明する義務があるのです。それをしなければ、ウソツキになってしまうんです。お願いです。どうか、拙者のわがままをお聞き届けください」
 彦兵衛は聞いてくれた。
 軍記の食事は稗だけしか出さなかった。
「味噌は?」
 と、勧めたが、軍記は笑って断った。
「不要です。拙者は民から味噌も取り上げましたので」

 しばらくして、軍記は体調を崩した。ぐったりしてきた。次第にやせ衰えてきた。
 彦兵衛は心配した。
「もういい!他の食べ物も食べなさい」
 鼻先に食べ物を突き付けられても、軍記は激怒するだけであった。
「稗だけしか食べません!拙者は負けたくないのです!」

 天保五年十月二十日、謹慎が解かれる前に野村軍記は死んだ。享年六十一。
 天保の飢饉での八戸の被害は、軍記が貯め込んでいたカネを放出したことによって比較的軽微で済んだという。

[2014年3月末日執筆]
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参考文献はコチラ

※ 野村軍記が自ら一日稗三合生活を実践したというのは、筆者の願望的憶測です

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