ホーム>バックナンバー2008>２．紫香楽造宮

　藤原仲麻呂は恭仁宮の聖武天皇を訪ねた。
　聖武天皇は下道真備と碁を打っていた。
　仲麻呂が聖武天皇に聞いた。
「陛下。恭仁造宮ははかどってないようですね。少しでも工事を遅くすれば、誰かさんの懐に余分に入ってくるカネも増えるというもの――」
「『誰かさん』とは誰じゃ？」
　そばにいた玄�ﾑが顔色を変えた。
「――無礼な！造宮工事は順調に進んでおるわ！それに懐のカネがどうのこうのというのは、おぬしら世襲貴族らのほうこそ得意とするところではないかな？橘政権は清廉潔白じゃ！官制を簡素化し、貴族の特権を打破しようとしている！先の藤原四兄弟政権の政策の真逆に向かっているのじゃ！」
　仲麻呂は笑った。
「これはこれは僧正様。同門の反乱以降『世襲卑族』に成り果てた藤原氏に、やましき考えはございません。それより今日は朝廷の財政をつかさどる民部卿の立場として倹約案を披露しに参った次第でございます」
　聖武天皇が盤上から目を移さずに促した。
「倹約案とな。申してみよ」
「ははあ。造宮の人夫の件ですが、優婆塞(うばそく。ここでは僧志願者)を集めて働かせてはいかがでしょうか？」
「ウバソク？」
「そうです。優婆塞たちを僧にしてやることを条件にして無償労働させるのです。こうすれば優婆塞たちは喜び、人件費も浮き、造宮経費を大幅に削減することができます」
「なるほど」
　聖武天皇は感心したが、これには玄�ﾑもニヤリとした。その結果、僧の数が増えれば、彼にとってもうれしいことだからである。
「仲麻呂。おぬしはたまにはいいことも申すのう。その案については、このわしも全面的に賛成じゃ。ヒッヒッヒ！」
　仲麻呂は続けた。
「ただし、烏合(うごう)の衆である大勢の優婆塞たちを束ねるのは容易ではありません。集団の統率に慣れ、かつ土木工事にも精通し、人生の酸いも甘いもなめ尽くした老獪(ろうかい)で人望高い高僧を頭に選ばなければならないでしょう」
　聖武天皇は考えた。
「もっともだが、難しいのう。そのような人物がいるのか？」
「一人だけおります」
「誰だ？」
「行基です。彼以外にこの大事業を成し遂げられる高僧はおりません」
　行基は法相宗の僧であるが、野に下って独自で布教活動を行っていた。諸国を漫遊し、各地に寺や橋や池や湊(みなと)や布施屋(ふせや。施し小屋)などを造りまくったため、民衆に絶大な人気があった(「温泉味」参照)。
「行基か。うーん」
　聖武天皇はうなったが、玄�ﾑは眉(まゆ)をひそめた。彼は八の字眉のため、いつも泣いているように見える。
「行基が高僧とは片腹痛い。あんなものはダメじゃ！」
　玄�ﾑと行基の師は義淵(ぎえん・ぎいん)という僧正にまで昇り詰めた高僧である。そのため互いをよく知っていた。
「なぜダメなのです？行基には実績があります。全国各地にこれでもかと、ありすぎるほどあります。まずは泉川(いずみがわ。木津川)の架橋(かきょう)工事。これだけでも試しににやらせてみるべきかと存じますが――」
「黙れ！ダメじゃと言ったらダメじゃ！アレのような民間に下った下賤(げせん)な坊主に、国家事業など務まるものかっ！」
　反対する玄�ﾑに、仲麻呂がさらりと言ってのけた。
「あなたももともと下賤ではありませんか」
「なんじゃと？」
　玄�ﾑの本姓は阿刀(あと)氏。畿内の小豪族の出である。
「それにあなたは、身分よりも才能が物いう社会を目指しているのではなかったのですか？官も民も関係ないではありませんか！これはと思った人物には機会を与え、試してみることです！才能ある者を否定することは、僧正自身の政策を自ら否定することなり！」
「……」
　言葉に詰まった玄�ﾑに、聖武天皇が口を挟んできた。
「僧正よ。ためしに泉川の工事だけでもやらせてみればいいではないか」
　真備もかみしめるようにつぶやいた。
「才能のある者は、たとえ身分が低かろうが、絶対に認められなければなりませんな」
　玄�ﾑは屈服した。
「何も言えねえ〜」

　行基による木津川架橋工事は七月に始まり、十月には終わってしまった。
「そうか。もう終わったか」
　そのため聖武天皇は、行基に恭仁京工事だけではなく、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)の造営工事も任せたのである。
「シガラキノミヤ？」
　首をかしげた玄�ﾑに、真備が言った。
「帝が新たに近江甲賀(こうか・こうが。滋賀県甲賀市)に造り始めた離宮ですよ」
「また離宮か。この財政の窮乏しているときに」
　天平十四年(742)八月、聖武天皇は紫香楽宮を造営し、行幸した。
　玄�ﾑは察した。
「近江といえば、あの藤原鎌足以来、代々藤原氏ゆかりの地だ。その地に招いたのは仲麻呂であろうな？」
「私もそう思います」
「仲麻呂め、何をたくらんでいる？」
「紫香楽遷都とか……」
「まさか、あんなド田舎に……」

　天平十五年(743)五月、恭仁宮で閣僚人事があった。
　右大臣・橘諸兄が左大臣に昇り、参議・巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)と同・藤原豊成が中納言に昇格、新たに藤原仲麻呂と紀麻路(きのまろ)が参議に列したのである。
　この年も聖武天皇は三度にわたって紫香楽宮に行幸した。
「なぜこんな頻繁に？」
「まさか本気で……」
　玄�ﾑと真備は不安がった。

　三度目の行幸は十月であった。この時に二人の不安は的中した。
「朕は天下泰平を願い、紫香楽に金銅製の盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)を造立する。みなの者、たとえひとつかみの草やひと握りの土でもいいから持ち寄って造仏に協力してほしい」
　いわゆる大仏造立の詔である。
　玄�ﾑは悔しすぎて笑っちまった。
「ヒッヒッヒ！ついにシガラキのタヌキが本性をむき出しよった！造仏の総帥(そうすい)は行基だそうな。畜生！仲麻呂め！なんとかギャフンと言わせてやりたいわー！」
　真備が提案した。
「私に策があります」