ホーム>バックナンバー2008>４．玄�ﾑ・吉備真備左遷

　天平十六年(744)十一月、紫香楽宮の甲賀寺(こうがでら。滋賀県甲賀市)に大仏の骨柱が立てられた。
「いよいよ大仏造立ですよ。見に来てくださいよー」
　十二月、元正上皇はとうとう聖武天皇に誘い出されて紫香楽宮に移っていった。これが事実上の紫香楽遷都である。
　藤原仲麻呂は勝ち誇った。
「これで難波宮には、帝も先帝もいなくなった」
　これでは橘諸兄たちも難波宮を引き払うしかなくなってしまったのであった。

　天平十七年(745)年一月、今度は行基が前例のない「大僧正(だいそうじょう)」に任ぜられた。
　僧正の玄�ﾑはおもしろくなかった。
「なんですか？ダイソージョーとかいうのは？」
　わざわざ藤原光明子のところに聞きに行った。彼女とは平城京では宅(法華寺と海竜王寺)が隣同士だったため、よく行き来していたが、今ではすっかり疎遠になっていた。
　光明子は会ってくれたものの、うれしそうな顔はしていなかった。
「字を見てわからないのですか？大僧正とは、新たに僧正の上に設けた仏教界の最高職ですよ」
　これでは玄�ﾑ、納得しない。
「行基は今まで僧綱三役(僧正＋僧都＋律師）の何の役職にも就いていません。そんなヤツをいきなりそんな新設の最高職に任じるのはいかがなものかと存じますが――」
「あなたたちだって皇太子を差し置いて、皇太子にもなっていないほかの皇子を即位させようとしたではありませんか？」
「そ、それは……」
「行基は恭仁京や紫香楽宮造営に大いに貢献してくれました。これからももちろん、大仏造立の総帥としておおいに働いてくれることでしょう。その彼を大僧正にして何が悪いのですか？」
「しかし、私の立場が――」
「うるさいわね！あんたに僧正を辞めろって言ってるわけじゃないからいいでしょう！」
　これではもう、そう言われているのと同じである。
　玄�ﾑはムカついた。
（なんでわしがあんなヤツの部下に――）
　余りにむしゃくしゃするので、紫香楽宮の周辺の山々に火をつけて回った。
　火はおもしろいように燃え広がり、天を焦がし、地をはいずり回った。
「ふふっ。木が燃え尽きてしまえば、宮も大仏も造れまい。いい気味じゃ」
　玄�ﾑは意地になり、その配下の者にも放火活動を勧めた。
　そのため紫香楽宮周辺では、連日連夜どこかで山火事が起こっているようになってしまった。
　だが、聖武天皇は勘違いした。
「これは自分に徳がないために神仏が怒っているのであろうか？」
　そこで諸寺に経を読ませたり、諸国の税を免じたり、大赦を発して罪人の刑罰を軽減したりしたが、一向に効果はなかった。

　四月も終わりになると、今度は地震が頻発し始めた。
　さすがにこれは玄�ﾑの仕業ではないと思うが、お手上げの聖武天皇は、役人たちを集めて意見を聞くことにした。
「平城京に都を戻すべきだと存じます」
　それが役人たちの一致した意見であった。
　聖武天皇は紫香楽宮をあきらめた。
　恭仁京と難波宮にそれぞれ名残を惜しむかのように滞在した後、九月に平城京に還都したのである。で、大仏の造立地も甲賀寺から平城京の金鐘寺(こんしゅじ。後の東大寺。奈良市)に移されたのであった。

　十一月、玄�ﾑは光明子の住む法華寺(ほっけじ。奈良市)に久しぶりに呼ばれた。
　先述したように法華寺は玄�ﾑの住む海竜王寺の隣にあるため、前は呼ばれてよく行き来していたものであるが、行基登用以降はすっかり疎遠になってしまっていたのである。
「何の御用でしょうか？」
　ワクワク尋ねた玄�ﾑに、光明子が満面の笑顔で頼んだ。
「実は、そなたに造ってほしい寺があるのです」
「ほお」
　おいしい話に八の字眉の下の玄�ﾑの奥目が輝いた。
　新たに寺を造るとなれば「余分ないいもの」も入ってくるからである。
「――で、それはどこの寺でしょうか？」
　うれしさを隠し切れない玄�ﾑに、光明子は簡単には答えず、気を持たせるかのようにこう言った。
「行基だけにたくさんの寺を造らせては、不公平もいいとこですからね」
「そうですとも！」
　うなずく玄�ﾑに、光明子が近づいた。
　今日の光明子は心なしか化粧が濃く、においもほんわり、なまめかしく見える。そんな彼女に乞うように見つめられ、指まで絡ませられ、
「ではそなた、造ってくれますか？」
　と、頼まれては、玄�ﾑも断る理由は何もなかった。
「はい！喜んで造らせていただきます！」
「それはありがたい」
　そう言ったのは光明子ではなかった。
　柱の後ろからいきなり登場した仲麻呂であった。
「きっ、貴様っ！ なぜ、こんなところにっ！」
「悪いか」
　仲麻呂が玄�ﾑにほざき、光明子に申し上げた。
「――ではさっそく、こやつを筑前に送還しましょう」
「筑前！」
　玄�ﾑは目を見開いて光明子を見た。
　すると彼女は平然と言った。
「そうですよ。造ってほしい寺というのは大宰府にある観世音寺(かんぜおんじ。観音寺。福岡県太宰府市)ですから」
　観世音寺とは、天智天皇が筑前で亡くなった母の斉明天皇のために飛鳥時代に造り始めた寺だが、八十年もたった今でも完成のめども立たない、日本版サグラダファミリア教会(スペイン・バルセロナ)のような寺なのである。
「はっ、謀ったなー！」
　足を踏まれた鶏のようにけたたましく叫んだ玄�ﾑの両腕を、大男の背奈福信(せなのふくしん。後の高麗福信)と坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が両脇からがっしりとつかんだ。
「連れて行け」
「放せっ！わしはそんな僻地(へきち)へは行かんぞ！そんなお化け屋敷のような寺、誰が造りに行くものかっ！」
　玄�ﾑは暴れたが、よぼよぼの老人が屈強の若者二人ににかなうはずがない。たやすくズルズル引きずられ、すぐにわめき声もろとも明るい外へと消えていった。

　こうして玄�ﾑは左遷され、すべての財産を没収された。
「何を！負けるものかー！」
　それでも玄�ﾑ、わずか半年で伽藍(がらん)を完成させて都へ帰ろうと意気込んだが、なぜか落成式当日に「藤原広嗣の亡霊」によって殺されてしまったという。享年不明。頭塔(奈良市)を彼の首塚とするのは俗説だという。

　天平勝宝二年(750)一月、今度は吉備真備(下道から改姓)が筑前守に左遷された。
(いつかこうなることは予想していたが、よりによって玄�ﾑが死んだ筑前にか……)
　彼はまもなく肥前守に転任し、さらに遣唐使に加えられて再び唐へ渡ることになった。
(よほど死んでほしいのだな)
　天平勝宝四年(752)閏三月、真備は唐へ出発した。
(意地でも生きて帰ってきてやる……)
　翌年、真備はがんばって生きて帰ってきた。しかも、あの唐僧鑑真を連れてである。
　真備は得意がった。
(今まで五度も招請に失敗した高僧鑑真を連れ帰ってきたのだ。わしにもそれなりの御褒美があるだろうな)
「よくやった！」
　仲麻呂はほめてくれた。
　が、ほめたのは真備ではなく、同行した大伴古麻呂(おおとものこまろ)にであった。
　古麻呂は正四位下に叙せられ、左大弁に任じられた。つまり、「プレ公卿」である。
(あれ？わしは？)
　真備にも正四位下が与えられた。彼は期待した。
(よし！ついにわしも中央政界復帰だ！)
　が、真備が任ぜられたのは、大宰大弐(だざいのだいに。大宰府次官)であった。
(また九州やないかーい！)
　これ以後、真備は仲麻呂が失脚するまで、中央政界に戻ってくることはなかったのである。

※ 紫香楽宮周辺で頻発した火災について、玄�ﾑ自ら放火していたという確証はありません。