ホーム>バックナンバー2008>５．橘諸兄失脚

　天平勝宝八歳(756)一月(天平勝宝七年一月四日〜八年は「年」ではなく「歳」)、橘諸兄に仕えていた佐味宮守(さみのみやもり)が聖武上皇に密告した。
　聖武上皇は天平勝宝元年(749)七月に皇太子・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位していた。
「我が主人橘諸兄が謀反をたくらんでおります」
　聖武上皇は病重く、死の床にあった。
　皇太后・藤原光明子が応対した。
「これ、何を根拠にそのようなことを申す？」
「これを御覧ください」
　宮守は宴の席で諸兄が詠んだ歌を記した短冊を渡した。

　　高山の巌(いわお)に生(お)ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪

　光明子は二、三度読み返してみたが、首をかしげた。
「この歌のどこに謀反の疑いがあるんですか？」
　宮守は説明した。
「はい。この歌は単なる景色を詠んだ歌ではありません。この歌には、『高山の巌のような天皇家に、菅の根のように寄生している藤原氏を、白雪のように冬に栄える橘氏が覆い隠してくれよう』という叛意(ほんい)が込められているのです」
「こじつけではないですか？」
　光明子は疑ったが、宮守はなお主張した。
「短冊にあるのは単なる文字の羅列です。そこから感情を読み取ることは難しいでしょうが、私はそれを詠んだときの主人の表情を間近に見ているのです。私は長年主人に仕えておりますが、普段温厚な主人の顔が、あのときだけは殺気に満ち満ちておりました。ああ、思い出すだけでも恐ろしい……。ブルブルッ！」
　光明子は言葉を失ったが、聖武上皇は苦しそうに笑い飛ばした。
「ハハハ！朕と諸兄とはなんじよりも長い。諸兄はそういう冗談を真顔で言う男なのだ。気にすることはない」
　このときはそれですんだのであるが、この話を聞いた諸兄は、左大臣の辞表を提出する決意をした。

　橘奈良麻呂があわてて井手へ駆けつけてきた。
「父上！大臣を辞めるというのは本当ですか？」
　諸兄は邸内の玉津岡という丘の上で眼下の景色を眺めていた。
「本当だ。わしは左大臣を辞め、政界を引退する」
「なぜです！父上は何も悪くはないではありませんか！悪いのは父上を裏切った宮守のほうです！どうせ今回の件も仲麻呂の仕業に決まっています！宮守は仲麻呂に釣られたのです！」
「いいではないか。わしももう七十三だ。お前が参議になるのを見届けることもできた。引き際を誤ってはならぬ」
　奈良麻呂は天平勝宝元年(749)に参議に入閣していたが、同年、参議の仲麻呂は中納言を飛ばして大納言に昇進していた。
　また、紫微中台(しびちゅうだい)なる皇太后の家政機関が新設されたが、仲麻呂はその長官である紫微令(しびれい)にも就任していた。
「私は参議になっただけです。ヤツの官位に追いついたわけではありません」
「追いつけなくともいいではないか。お前は仲麻呂より若い。待っていればヤツのほうが先に死ぬであろう」
「ヤツが死ぬまで待てというのですか！私は待てません！ヤツが今までしてきた悪行の数々、これからしようとしている悪行の数々、私はこれらを決して許すことはできません！紫微中台の『紫微』とは、何を意味するか御存知でしょう？」
「古代中国の星座『紫微垣(しびえん)』のことだろう？」
「そうです。天帝の居所とされている星座のことです。ようするに仲麻呂は皇太后を宇宙一偉い天帝になぞらえているのです！実際、皇太后は天皇御璽(てんのうぎょじ。天皇の実印)を預かっています。娘の帝(孝謙天皇)を傀儡(かいらい)にし、国政の実権を握っているのです。このことは皇太后率いる紫微中台が、帝率いる太政官より上位であることを示しているのです！つまり、父上や右大臣(藤原豊成)よりも、仲麻呂の地位のほうが上回っているということになるんです！帝だけではありません。父上や右大臣以下太政官の面々はみな、仲麻呂によって傀儡にされているんですよ！」
「そんなことはわかっている。だからわしはおもしろくないから左大臣を辞めるのだ」
「なぜ辞めるんです!?なぜやり返さないのです!?以前の父上は仲麻呂にしてやられたときは悔しがっていた！反撃すればいいではないですか！それとも、仲麻呂が怖いんですか!?」
「うん」
　諸兄は即答した。
「――もしわしがここで退かなければ、仲麻呂は何度でも仕掛けてくるだろう。わしは仲麻呂の執念深さが恐ろしいのだ。わしは恐怖の仲麻呂と同じ時代に生まれたくはなかった……。ヤツは秀才玄�ﾑや天才真備さえ退けた男だ。帝を操る皇太后ですら丸め込んだ男だ。先々帝(元正上皇)も亡くなられた今、我々に味方はいないし、勝ち目もない。おとなしく退くしかないのだ」
「父上……。玄�ﾑも真備も仲麻呂に負けたわけではありません……。決して二人が仲麻呂に劣っていたわけではありません！まっとうに戦っていれば、仲麻呂なんぞ二人の足元にも及ばなかった！ヤツは汚い手を使っただけなんです！安積親王の件もそう！ヤツは権力のためなら主君の皇子を殺(あや)めることも平気なのですよ！父上はこのような悪逆非道な仲麻呂を許しておくのですかっ!?」
「汚い手を使った者は、いつか必ず自滅するものだ。どんな手を使ってでも敵を倒そうとする者は、無惨に討たれる運命が待っているのだ。ヤツは敵を倒すたびに新たな敵が増えていることに気づいていない。袋小路に入っていることに気づいていない哀れな男なのだ。――ヤツを恨むな。人を恨めば、恨みは必ず自分のところに返ってくる。思いもよらぬところから返ってくる。おまえは玄�ﾑや真備は仲麻呂に負けていないと言ったが、そうではない。玄�ﾑは仲麻呂に負けたが、真備はまだ負けていないのだ。玄�ﾑは仲麻呂に反抗して死んだが、真備は反抗せずに生き延びた。つまり、まだ勝負はついていないのだ。わしは真備の道を選ぶ。お前も真備を選ぶがいい。将来、道に迷ったときは、生きる方の道を選ぶがよい。名誉に死ぬよりは恥に生きよ！生きてさえいれば、必ず勝利は舞い込んでくるのだ！」
　諸兄は眼下の景色を眺めて目を細めた。
「愚かなことよ。むなしいことよ。勝ち負けがいったい何だというのだ。醜き人間どもが幾多のくだらぬ勝敗にこだわっている間も、この絶景は不変だった。これからもそうだ。たとえ仲麻呂が栄えようが滅びようが、百年たとうが千年たとうが、丘は緑で川はきらめき、空は青いままなのだろう……」

　二月、諸兄は左大臣を辞任した。
「そうか。辞めるか」
　辞表を受け取った聖武上皇は五月に五十六歳で崩御し、翌年、諸兄も後を追うように死んでいった。
　享年七十四。北王塚(井手町)というのが彼の墓だという。
「いくら生きようとしても死は万人のもとにやってくる。生きようとすれば必ず勝利が舞い込んでくるとは限らないのだ！勝利は待つものではない！自分からつかみ獲りに行くものだ！私は父とは違う！玄�ﾑや真備とも違うのだ！私は私の信じる道を行くのだ！」
　まもなく奈良麻呂は、打倒仲麻呂の反旗を翻すのであった(「意地味」参照)。

[2008年9月末日執筆]
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