2.道鏡の秘法 | ||||||||||||||
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道鏡の本姓は弓削(ゆげ)氏である。
弓削氏は物部氏の支流で、河内を地盤とする中堅豪族であるが、道鏡の家はその中でも傍流、ようするに一介の庶民であった。
「オレのような庶民は、普通に朝廷に出仕していては生涯出世は望めない」
そう思った道鏡は、葛城山(かつらぎさん。大阪府・奈良県境)で修行した後、平城京に出て出家、法相宗の巨人・義淵(ぎえん・ぎいん)、次いで東大寺創建僧・良弁(ろうべん)に弟子入りした。
「勉強して立派な僧になれば、高貴な方とも仲良くなれ、出世もできるであろう」
現に道鏡の兄弟子・玄ムは、聖武天皇生母・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の信任を得、仏教界のドン・僧正(そうじょう)まで昇り詰めていた(「暴発味」参照)。
(よし! オレも高貴な方に取り入って出世するんだ!)
道 鏡 PROFILE | |
【生没年】 | ?-772 |
【別 名】 | 弓削道鏡 |
【出 身】 | 河内国若江郡弓削(大阪府八尾市) |
【本 拠】 | 平城京西宮(奈良県奈良市) |
【職 業】 | 政僧 |
【役 職】 | 少僧都(763-764) →大臣禅師(76-766) →太政大臣禅師(765-766) →法王(766-770) →下野薬師寺別当(770-772) |
【父 母】 | 不明 |
【 師 】 | 義淵・良弁・路豊永 |
【兄弟子】 | 玄ム・行基・宣教・良敬・行達 ・隆尊・道慈ら |
【 弟 】 | 弓削浄人 |
【側 近】 | 円興・基真・高麗福信 ・伊勢老人・藤原雄田麻呂(百川)ら |
【盟 友】 | 吉備真備ら |
【仇 敵】 | 藤原仲麻呂・和気清麻呂ら |
【没 地】 | 下野薬師寺(栃木県下野市) |
道鏡には標的があった。
聖武天皇の愛娘・阿倍内親王、後の孝謙(称徳)天皇である。
天正十五年(743)五月五日、道鏡は恭仁宮にて初めて彼女の姿を見たと思われる。
その日、皇太子・阿倍内親王ピチピチ二十六歳は、五節舞(ごせちのまい)の舞姫として衆前で華麗に舞い踊った。
その比類なき美貌(びぼう)に、道鏡は直立し、感涙し、一瞬にして心奪われてしまった。
(美しーい!)
そして、心に誓ったのである。
(オレの目指すのは彼女だっ! 彼女以外にありえなーい!)
道鏡には弓削浄人(きよひと。清人)という弟がいた。
浄人は兄とは違って出家せず、朝廷の最下層の位階(いかい)・初位(そい・しょい)からマジメに地道に勤務していた。
「兄者、どうした?
最近、顔がニヤついてるぞ」
道鏡がうれしそうに言った。
「そうか? 結婚が近いからだろう」
「え!
誰と結婚するの!?」
「皇太子・阿倍内親王」
「ウプッ!
ブワーッハッハハッ!」
浄人は吹き出した後、大いに笑った。
「兄者はアホかっ!」
「アホではない! 本気だ! オレは皇太子ともうすぐ結婚するんだっ!」
「できるわけないじゃないかっ! オレたち庶民にとって皇太子殿下なんて拝むことすらできない最高に高貴な雲の上の、とにかくすんごい御方なんだぞっ!」
「オレはすでに五節の舞のときに拝んでいる」
「そんなことはもう二度とないよっ! 皇族の、しかも最高位の女性と結婚なんてできるはずがないし、もう逢うことすら無理な話だ」
「いや。また逢うことはできる。逢えば何とかなる」
「秘策でもあるのか?」
「ある。看病禅師になればいいんだ」
看病禅師とは、医学・薬学にも精通した僧のことである。
有能な看病禅師は、宮廷に出仕して高貴な方を診察することができたのである。
必死に勉強して看病禅師になった道鏡は、師の良弁に頼み込んで宮廷潜入に成功した。
が、肝心の阿倍内親王が風邪一つ引かなかったため、看病禅師の出番は全くなかったのである。
「クソッ!
なんて健康な女だっ!」
そのため、いたずらに時だけが過ぎていった。
その間に阿倍内親王ピチピチ二十六歳は、天平勝宝元年(749)に孝謙天皇ムチムチ三十二歳として即位、天平宝字二年(758)には淳仁天皇に譲位し、孝謙上皇パリパリ四十一歳になってしまったのである。
道鏡は悔しがった。
(クッソォ〜! いとしの彼女がどんどんオバさんになっていくぅ〜! もう待てない〜!
耐えられない〜! このままあきらめるしかないのかぁー!)
が、天は道鏡を見放さなかった。
彼に千載一遇のチャンスを与えたのである。
「上皇陛下が御病気だそうな」
「それもかなり重いらしい」
「もはや長くないそうだ」
天平宝字六年(762)、孝謙上皇カサカサ四十四歳はついに保良宮(ほらのみや。滋賀県大津市)にて発病、しかも重態に陥ったのである。
「これは大変だ」
多くの僧や医師が彼女を診断し、治療・祈祷(きとう)してみたが、一向に良くならない。
時の執政官・藤原仲麻呂は激怒した。
「誰か治せる者はいないのか! もっと腕の立つ看病禅師を呼べぇー!」
そこで良弁の推挙により、道鏡が呼ばれたのである。
「お任せください。私が必ずや治して見せましょう」
道鏡は孝謙上皇に「宿曜(すくよう)秘法」を行った。
「宿曜経(唐の不空が訳した仏典)」による秘法らしいが、詳しいことはよく分からない。
「秘法」と聞くと何か妖(あや)しげでエロいことを想像してしまうが、考えすぎであろう。
いわゆる道鏡巨根説も、後世の妄想の産物と思われる。
でも、おもしろいので江戸時代の彼のソレに関する川柳をいくつか御紹介。
道鏡は座るとひざが三つでき
道鏡は人間にてはよもあらじ
道鏡は据風呂桶の御宇に出る
また『水鏡』別本には、彼の巨根は後天性のもので、
「お経に小便をかけていたところ、先っぽをハチに刺されて巨大化した」
ことになっている。
話はそれたが、孝謙上皇は道鏡の秘法によって歓喜――、いや、完治した。
「あなたが治してくれたのね」
彼女はウルウルと恩人の顔を見つめた。
翌年、孝謙上皇は道鏡を少僧都(しょうそうず)に任命した。
少僧都とは、僧正・大僧都(だいそうず)に次ぐ仏教界のナンバースリーの地位である。
孝謙上皇は、命の恩人道鏡に対して何か特別な感情を持ったに違いない。
そのことは、まもなく彼女が仲麻呂と淳仁天皇を破滅に追い込み、代わって道鏡を次々と昇進させたことからも明らかであろう。