3.道鏡の栄華 | ||||||||||||||
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神護景雲元年(767)三月、孝謙上皇改め称徳天皇は、道鏡のために法王宮職(ほうおうぐうしき)を新設した。
「あなたの役所だから、自由に使っていいのよ」
宮職とは、天皇や皇后や皇太子などにしか認められない皇族専用の事務所である。それが法王道鏡のために設置されたということは、彼が完全に公然と皇族になったことを意味するわけである。
また、称徳天皇は東大寺に対抗して西大寺(さいだいじ)を、法華寺(ほっけじ)に対抗して西隆寺(さいりゅうじ)を創建、淳仁天皇の旧皇居・中宮院(ちゅうぐういん)を西宮(さいぐう)として道鏡に住まわせた。
道鏡は躊躇(ちゅうちょ)したかもしれない。
「庶民の私が皇居になんぞ住んでいいのでしょうか?」
称徳天皇は言った。
「いいのよ。どうせ誰も住んでいないし、あなた以上にここに住むのにふさわしい人はいないわ。あなたの望みは分かっているわ。朕の望みも分かっているでしょ。あなたは朕にふさわしいオトコになるのよっ」
当然、道鏡の身内や弟子たちも優遇された。
弓削浄人はほとんどの上司をゴボウ抜きして大納言に大昇進、道鏡の側近・円興(えんこう)は法臣(準大納言)兼大僧都に、その弟子・基真(きしん)は法参議兼大律師(だいりっし。少僧都に次ぐ地位)に任じられた。
ただし基真は、ゲイ道に励んでいたため、まもなく退けられている。
「島流し。フォー!」
道鏡一族の躍進を目の当たりにしても、政権豪族・藤原氏の面々は黙っていた。
「何しろ相手は女帝の命の恩人だから〜」
北家当主・藤原永手(ながて)も、式家当主・藤原宿奈麻呂(すくなまろ。後の良継)も、誰も何も文句を言わなかった。
何しろあの無敵の仲麻呂ですら、一番偉いはずの淳仁天皇ですら、称徳天皇には勝てなかったのである。彼女の意に反することは、すなわち失脚を意味していた。
「反発したって利はない。今はこびへつらうのが一番なのだ」
そのため希代の策士・藤原雄田麻呂(おだまろ。宿奈麻呂の弟。後の百川。「奈良味」「ヤミ味」参照)は進んで道鏡に取り入り、左中弁(さちゅうべん。官房副長官)・内竪大輔(ないじゅのたいふ。法王SP副隊長)・右兵衛督(うひょうえのかみ。皇居警備隊長)・内匠頭(たくみのかみ。宮中建設相)・武蔵守(県知事)など、官職をいっぱいもらっておいしい思いをしていた。
「みんなもこうしたほうがいいよ」
永手もそうしていたが、おもしろくはなかった。
「それにしても女帝の目的はなんなんだ? いったい法王をどうするつもりなんだ?」
雄田麻呂はズバリ言った。
「ムコにしたいんでしょう。そのうちにお二人の間に皇太子が誕生するかもしれませんよ」
「バカな! 女系天皇など有史以来ただ一人として存在しない! 神国日本の歴史を冒涜(ぼうとく)する気かっ!」
宿奈麻呂は激怒した。
宿奈麻呂は、右翼の巨頭・大伴家持の親友であるため、彼に感化されていたものと思われる。二人は仲麻呂政権時代につるんで反乱を画策したこともあった。
雄田麻呂は笑った。
「まさか、そんなことまではしないでしょう」
が、当の二人はもっととんでもないことを計画していたのであった。