1.大君は私 | ||||||||||||||
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「私は日本の頂点に立った」
豊かなもみ上げを風になびかせながら、感慨深げにそう言った赤ら顔は、日本人ではなかった。
幕末の初代駐日英総領事オールコック(Rutherford Alcock)である。
「まるで日本のすべての民が、この私にひれ伏しているかのようだ」
万延元年(1860)七月二十六日、オールコックは日本一の高峰・富士山(静岡・山梨県境)に登頂した。彼は日本で初めて富士山に登った外国人なのである。今年(2010年)はそれから百五十周年ということで、静岡県富士宮市で記念式典が用意されているという。
「富士山に登りたい」
オールコックが言い出したところ、幕閣は慌て、何とか止めさせようとした。
「おやめください!」
「あの山には神がおわします(「山岳味」参照)!」
「女人が登っただけで嵐が起こるのです!」
「夷人(いじん)が登ったら何が起こるかわかりませんぞ!」
それでもオールコックは登山を決行した。
七合目あたりで、雷雨になり、
「当山は神州第一の霊峰なり!夷人はすみやかに下山いたせ!」
と、神、あるいは神を語る人に言い放たれたが、かまわず登った。
「私は負けぬ!日本はじきに大英帝国のものになるのだ!清国もインドも朝鮮も、みなみな帝国の植民地になるのだ!こんなことでへこたれていては、得られるものも得られぬ!何がハリスだ!何がアメリカだ!」
ハリス(Townsend Harris)は初代駐日米公使である。
オールコックが来日したのは安政六年(1859)五月であるが、ハリスはすでにそれより三年も前に来日していた先輩在日外交官であった。
無理もなかった。日本を開国したのはアメリカであり、和親条約も修好通商条約もイギリスより一足先に締結していたのである。
オールコックはおもしろくなかった。
「アメリカはもともと大英帝国の植民地ではないか!大英帝国の中でも、田舎モンであぶれモンたちが建国したカスの国ではないか!そのようなカスどもに、しかも商人あがりの外交官に、本家の、元祖の、この優秀な医者でもあるオールコック様が負けるわけがなかろう!コノヤロー、ハリス!くたばっちまえー!ヤッホー!アッホー!ルーピーヤロー!」
お供のロビンソンが尋ねた。
「総領事。お気がすみましたか?」
「ああ、清々した。――ところで、この山の標高はいくつだ?」
ロビンソンが測量器の数値を確かめて答えた。
「えーっと……、約四千三百二十三メートルです」
むちゃくちゃである。
当時も今も日本にはヒマラヤ級の高峰は存在しない。
文久元年(1861)五月二十八日、第一次東禅寺(とうぜんじ)事件が起こった。
オールコックが住む高輪(たかなわ。東京都港区)の英仮総領事館・東禅寺が、尊攘派の水戸浪士ら十数名に襲撃されたのである。
「夷人を神州から追い出せ!」
「弱腰幕府なんかあてにならない!」
「駐日英総領事オールコックをぶっ殺せー!」
この戦闘で英仮公使館書記官オリファント(L.Oliphant)や長崎領事モリソン(G.Morrison)が負傷した。
寝室でおびえ縮こまって隠れていたオールコックは、敵が追い払われると、ガハハハと高笑いして仁王立った。
「ふっ!口ほどにもないヤツラだった!それにしても、何という治安の悪さだ!」
このところ、尊攘派志士による外国人襲撃事件が頻発していた。
ついこの間も駐日米公使館通訳ヒュースケン(Hendrik Conrad Joannes Heusken)が殺害されたばかりであった。
「もうこんなところに住んでいられない!」
オールコックは幕府に東禅寺事件の賠償金と治安の改善を要求した。
この年の十一月、彼は総領事から公使に昇格していた。
「私の大事な部下が二人もケガをしたんだ。え?どう責任を取ってくれるのかね?」
当時の幕府の執政官は、老中・安藤信正。
同じく老中・久世広周(くぜひろちか)とともに公武合体を推進し、和宮降嫁を実現した軟弱外交派の政治家であった。
「ふーん。貴国も清国のようになりたいのかね?」
「ま、まさかっ」
清はアヘン戦争でイギリスにコテンパンにやられ、列強の奴隷に成り果てていた。
「なめんじゃねえ!帝国はいつでも戦う準備ができている!江戸湾を大艦隊で埋め尽くしてもいいのか!」
安藤はビビッてしまった。
「わかりました〜。とりあえず、おけがをされた方にお見舞金を〜」
「見舞金は一人当たり一万ドルだ!」
「ええ〜!」
「それから私たちのためにどんな志士も寄せ付けない頑強な公使館を建てること。私たちが設計したとおりの難攻不落の要塞(ようさい)を建ててもらう。もちろん、建設費は全額幕府もちだ」
「ええ〜!」
「場所は御殿山(ごてんやま。東京都品川区)」
「あー、あの江戸きっての桜の名所の」
「公使館建設のため、山は崩し、桜の木は全部伐採してもらう」
「ええ〜!」
「いちいちうるさいヤツだな。江戸を火の海にしてもいいのか!日本を石器時代にしてもいいのか!これは脅しではない!本当にやるぞっ!やるといったらやってやるぞぁー!」
「勘弁してください〜。すべておっしゃるとおりにいたしますから〜」
文久二年(1862)三月、オールコックは休暇のためイギリス本国へ帰っていった。
「私はこの国の志士とかいううるさいハエどもが嫌いだ」
当時は尊攘派の全盛期であった。
同年一月、安藤信正は水戸の尊攘派の志士に襲われて負傷して失脚し(坂下門外の変)、四月には土佐藩仕置役・吉田東洋(よしだとうよう。正秋)が土佐尊攘派の武市瑞山(たけちずいざん。半平太)率いる土佐勤王党(とさきんのうとう)に暗殺されていた。
また、薩摩尊攘派の有馬新七(ありましんしち)らも決起しようとしたが、薩摩藩国父・島津久光によって未然に粛清されている(寺田屋事件・寺田屋騒動)。
「後を頼む。『城』が完成したら帰ってくるぞ」
「お任せください、閣下」
オールコック留守中の駐日英代理公使は、陸軍軍人のニール(Edward John Neale)。
「次に私が日本に戻ってくるときには、列強のボスになっている」
「それはおたのもしい」
後にオールコックはイギリス・フランス・オランダ・アメリカからなる四国艦隊を結成させ、下関戦争を起こすことになるのである。
オールコックには自信があった。
「私はこの国で天下を取る方法を心得ている」
「ほー。どのような方法で?」
「大君、つまり帝(みかど)だ。帝さえいただけば、この国の天下万民がこのオールコック様に従うのだ」
ニールは笑った。
「フッフッフ。それでは大君とは名ばかりで、閣下のフィギュアではありませんか」
「その通り!この国の事実上のエンペラーは、この私なのだ!」