1.その男、天才につき

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菅原道真と藤原時平
1.その男、天才につき
2.天才の甍
3.渡る世間は敵ばかり
4.最後の一屁
5.そのとき歴史は蠢いた
6.東風とともに去りぬ

 こんにちは。本院大臣こと藤原時平です(「藤原北家系図」参照)
『菅原伝授手習鑑
(すがわらでんじゅてならいかがみ。近松門左衛門作)』、読みました。
 最悪ですね。
 私って、あんなにワルなんでしょうか?
 無理もありません。何しろ私は先生を裏切った男ですから。
 そうです。人間というものは、最後に裏切った者が、誰よりも憎まれるものなんです。

菅原道真 PROFILE
【生没年】 845-903
【別 名】 阿呼・菅家・菅公・天満大自在天神
【出 身】 平安京菅原院(菅原院天満宮。京都市上京区)
or平安京紅梅殿・白梅殿(京都市下京区)
or山城国吉祥寺(吉祥院天満宮。京都市南区)
or大和国菅原(奈良市菅原町)
or菅生寺?(奈良県吉野町)
or菅原天満宮?(島根県松江市)
【本 拠】 紅梅殿(北菅大臣神社)・白梅殿(菅大臣神社)
→大宰府(福岡県太宰府市)
【職 業】 学者・公卿(政治家)・書家・詩人
【役 職】 下野権少掾→玄蕃助→少内記→兵部少輔
→式部少輔・文章博士・加賀権守→讃岐守
→蔵人頭・式部少輔・左中弁・左京大夫
→参議・式部大輔・左大弁・勘解由長官・春宮亮
・遣唐大使・侍従・近江守→中納言・春宮権大夫
・民部卿→権大納言・中宮大夫・右近衛大将
→右大臣・右近衛大将→大宰権帥
【位 階】 正六位下→正六位上→従五位下→従五位上
→従四位下→従三位→正三位→従二位
【 父 】 菅原是善(菅原清公の子)or不明
【 母 】 伴善績?の女
【 妻 】 島田宣来子(島田忠臣女)ら
【 子 】 菅原高視・寧茂・景行・景鑑・淳茂・旧風・弘茂
・兼茂・宣茂・淑茂・滋殖・尚子(典侍or尚侍)
・寧子(斉世親王妃)・衍子(宇多天皇女御)・阿満ら
【主 君】 宇多天皇・醍醐天皇ら
【友 人】 源能有・紀長谷雄・藤原忠平ら
【弟 子】 文室時実・味酒安行ら
【仇 敵】 大蔵善行・三善清行・藤原時平ら
【著 作】 『類聚国史』『菅家文草』『菅家後集』
『新撰万葉集(異説あり)』など
【業 績】 寛平の治に協力・遣唐使停止(廃止)
・『日本三代実録』編修など
【墓 地】 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
・菅原神社?(鹿児島県薩摩川内市)
【霊 地】 北野天満宮(京都市上京区)
・太宰府天満宮(太宰府市)
ほか全国各地の天満宮・天神神社など

 先生――。
 そうです。菅家
(かんけ)、菅公(かんこう)、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)、つまり、菅原道真大先生のことです(「菅原氏系図」参照)
 私は彼を尊敬していました。畏怖
(いふ)していました。
 嫉妬
(しっと)
 そういったものは自分では気づきませんでしたが、心の奥底にあったのかもしれません。

 先生は天才でした。
 生まれながらにして脅威の文才を持っていました。
 嘉祥二年(849)、先生はわずか五歳の時にこんな和歌を詠んでいます。

  梅の花紅の色にも似たるかな
   阿呼
(あこ。道真の幼名)のほほにつけたくぞある

 すごいですね〜。五歳の私は読み書きもままならず、ビイビイ泣いていただけでした。 
 また、斉衡二年(855)、先生は十一歳ではこんな漢詩を読んでいます。

  月の耀(かがや)きは晴れたる雪のごとく
  梅の花は照れる月に似たり
  憐
(あわ)れむべし金鏡(月面)転じ
  庭上
(ていしょう)に玉房(梅香)の馨(かお)れるを

 この年、先生は大学に通い始めました。大学は普通十三歳以上で入学するものなんですが、先生は天才ですから、特別なんです。
 その後、先生は貞観四年(862)十八歳で文章生試
(もんじょうせいし。文学部エリート試験。文章生の定員は二十名)に合格(当時の最年少タイ記録)、貞観九年(867)に文章得業生(もんじょくとくぎょうせい。定員二名)に選ばれ、正六位下・下野権少掾(現在でいう県庁高官。遙任)に初任官、貞観十二年(870)には、三〜四年に一人しか受からないという難関・方略試(ほうりゃくし。超エリート官吏試験)に一発で合格しました。

 先生の学才は詩歌だけでありませんでした。
 文学・歴史・儀式・宗教・祭祀
(さいし)・その他雑学、あらゆる事物に精通していたのです。
 書も極めて達筆で、空海小野道風とともに「書道三聖」の一人とされています。

書道三聖
空海(弘法大師)
菅原道真
小野道風

 先生は文だけではなく、武も優れていました。
 見たことはありませんが、特に弓は百発百中の腕前だったと伝えられています。

 また、堅物ではなく、多情で恋多き方でもありました。先生の超人的な詩才は、恋愛からも磨かれたのでしょう。先生は平安朝随一の色男・在原業平とも親しく、古代最大の歓楽街・江口(えぐち。大阪府東淀川区)へも足繁く通っていたようです。
 先生の詩にはこんな艶
(つや)っぽいものもあります。

  しらぎぬなす質(かたち)の何なれぞ衣に勝へざらむ
  いつわりて言ふ春色腰の囲
(まわ)りに満てりと
  残粧(化粧崩れ)おのずから珠こう
(手箱)を開くにものうし
  寸歩また粉囲
(控え室)を出づるを愁(うれ)
  嬌眼
(色っぽい瞳)波を曽(かさ)ねて風乱さんと欲す
  舞身雪を廻してはれてなほ飛べるがごとし
  花間日暮れ笙
(しょう)歌断つ
  遥かに微雲を望みて洞裏
(とうり。控え室)に帰る

 結果、妻子はたくさんいました。
 正妻・島田宣来子
(しまだのぶきこ)ほか数人の妻から二十三人の子女をなしています(一説に十数人とも)

 私が幼い頃から、先生はすでに一流の詩人で書家でした。
 したがって、私の邸内にも先生の作品がいくつも飾られていました。
 私の父・藤原基経が求めさせたのです。
 父はいわずと知れた日本最初の関白です
(「スト味」参照)。権力者というものは当代一流のものを何でも集めたがるものです。当然、先生の作品もいらないはずはありませんでした。
 また、父は先生の妥協を許さない仕事っぷりも買っておりました。で、詩歌や書類、各種文書の代筆をしょっちゅう先生に依頼していました。
「すごい! 菅家はすごすぎる! 菅家の文章には魂が宿っている!」
 父は先生が作成した詩文や書類を見て、いつも感心していました。
 その一方で警戒もしていました。
「菅家の文才は政局になる。政治を左右させることも可能だ」

 天才というものは、疎まれるものです。
 特に同業者というものは、あまり口には出しませんが、嫌うものです。
「何が天才だ」
 私の師・大蔵善行
(おおくらのよしゆき)も先生を疎んでいる一人でした。
 いえ、師は誰よりも先生を憎んでいました。
 師は先生がモテ男だということも気に入りませんでした。
「学問にオンナなど必要ねえー!」
 師は外見的欠陥のためか、全然もてませんでした。
 師はいつも願っていました。
「わしは菅家の存在を許さぬ! あんなヤツがいるから、わしは永久に認められないのだ! あんなヤツ、どこかに行ってしまえー!」

 仁和二年(886)正月、先生は讃岐守に左遷されて四国に渡っていきました。
 父の警戒心と師の排斥運動の結果でしょう。

 先生の讃岐守在任時代にこんな逸話があります。
 あるとき、都から宮道友兄
(みやじのともえ)なる役人が仕事の依頼にやって来ました。
 先生のところには左遷後も作文・代筆の依頼がひっきりなしに飛び込んできたのです。おかげで先生はいつも寝不足でした。
「菅先生。うちの母が五十になったお祝いの願文をお願いします」
「眠いんだよ〜。一眠りした後にしてくれない〜?」
「そこを何とかお願いしますよー。短いのでいいですから〜。口述でもいいですから〜」
 友兄が頭を下げて頼むので、先生は奥から枕をとってこさせて言いました。
「そうですか。口述でいいなら眠りながら作りますので、書き留めてください」
「え! 眠りながら!」
 友兄が驚いているうちに、先生は本当に眠ってしまいました。
「えーっ! マジで寝ちゃったよ〜」
 友兄が口を尖らせていると、先生が寝言を言い始めました。
「こ、これは……」
 友兄はあわてて筆を取りました。
 そうです。それが彼の依頼した願文だったです。
 世に文才のある方は多くありましょうが、眠りながら作文できる天才は、おそらく先生以外にはいないでしょう。

 先生が都にいない間に、例の阿衡の紛議(「スト味」参照)が起こりました。
 讃岐国府
(香川県坂出市)でこのうわさを聞きつけた先生は、父に対して意見書を送信しました。
 内容は橘広相
(たちばなのひろみ)を擁護し、これを罰することは摂関家にも大きな損失になるであろうと父を諫(いさ)めるものでした。
 父は感心しました。
「やはりすごい! 菅家はすごすぎる!」
 父はそれを何度も読み返してうなっていました。

 寛平三年(891)一月十三日、父・基経は五十六歳で死にました。
 父は死ぬ前に私を呼び寄せて言い残しました。
「菅家を敵に回すな。たとえ万人が敵に回ったとしても、決して敵に回すな。ヤツの文才はあらゆる敵を凌駕
(りょうが)する。ヤツを敵に回した時、摂関家は滅びると心得よ」

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