2.天才の甍 | ||||||||||||||
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父・藤原基経の死を内心喜んでいる方がいました。
「これで存分に親政ができる!」
臣下出身の壮年天皇・宇多天皇でした(「天皇系図」参照)。
摂関家の子女を母に持たない彼は、摂関政治を廃し、ひそかに天皇親政を目指していました。
そのため宇多天皇は有能な手下を集めました。
文徳源氏の貴公子・源能有(みなもとのよしあり。「文徳源氏系図」参照)、藤原南家の良吏・藤原保則(やすのり。「藤原南家系図」参照)、そして、反骨の天才学者・菅原道真先生です。
中でも宇多天皇は、特に先生のことを気に入っていました。
それからの先生の昇進は目覚しいものがありました。
先生は父が死ぬ前年の寛平二年(890)に讃岐守の任期を終えて都に戻っていましたが、寛平三年(891)には公卿の登竜門・蔵人頭に就任、寛平五年(893)には早くも参議として入閣しました。兼官も式部少輔(しきぶのしょう。式部省次官)→式部大輔(しきぶのたいふ)、左中弁(さちゅうべん。左弁官局次官)→左大弁(さだいべん。左弁官局長官)、左京大夫(さきょうのだいぶ。左京職長官)、勘解由長官(かげゆのかみ。勘解由使長官)、春宮亮(とうぐうのすけ。春宮坊次官)と華やかです(「古代官制」参照)。
宇多天皇はわからないことがあると何でも先生に聞きました。先生は何でも答えてくれましたから、ますます頼りにするわけです。
皇太子を誰にするかも先生一人に相談しました。
宇多天皇はこう考えていました。
「摂関家の力をそぐには、皇太子は今のうちに決めておいたほうがいい」
当時はまだ、摂関家の娘から生まれた皇子はいませんでした。去る阿衡の紛議で父が差し向けた私の異母妹・温子(おんし)は、皇女(均子内親王)だけしか生んでいません。
先生は提案しました。
「敦仁親王殿下でいいのでは?」
敦仁親王は藤原北家・藤原高藤(たかふじ)の娘・胤子(いんし)から生まれた皇子でした。北家とはいえ傍系ですので、摂関家の影響はありません。
それでも宇多天皇は意外な顔をしました。
「敦仁でいいのか?」
宇多天皇は当然、先生と親しかった橘広相の娘・義子(ぎし)所生の斉世親王(ときよしんのう。その兄・斉中親王は早世)を挙げてくると思ったのでしょう。後にこの親王は先生の娘の一人を妃にするくらいです。
先生は笑いました。
「私はかつての橘先生のように摂関家ににらまれたくはありませんから」
宇多天皇は納得しました。
「そうか。菅家がそう申すならそれでいい」
寛平五年(893)四月、敦仁親王は立太子しました。
他の公卿はおもしろくありませんでした。
表が寛平五年四月当時の参議以上の公卿です。
●宇多天皇政権閣僚(893.4/) |
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官 職 | 官 位 | 氏 名 | 備考 |
天皇 | 宇多天皇 | ||
左大臣 | 従一位 | 源 融 | 嵯峨天皇皇子。 |
右大臣 | 正三位 | 藤原良世 | 時平の大叔父。 |
大納言 | 正三位 | 源 能有 | 文徳天皇皇子。 |
中納言 | 従三位 | 藤原時平 | 摂関家当主。 |
中納言 | 従三位 | 源 光 | 仁明天皇皇子。 |
中納言 | 従三位 | 藤原諸葛 | 藤原南家。 |
参 議 | 正四位上 | 源 直 | 嵯峨天皇の孫。 |
参 議 | 正四位上 | 藤原有実 | 時平の従兄弟違い。 |
参 議 | 正四位下 | 藤原国経 | 時平の叔父。 |
参 議 | 従四位上 | 源 貞恒 | 光孝天皇皇子。 |
参 議 | 従四位上 | 藤原保則 | 藤原南家。 |
参 議 | 従四位下 | 源 湛 | 融の子。 |
参 議 | 従四位下 | 菅原道真 | 菅原氏当主。 |
中でも元天皇皇子の中納言・源光(みなもとのひかる。「仁明源氏系図」参照)は怒りをあらわにしました。
光は名前からして『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされていますが、まだ遊び人・源融(とおる)らのほうがそれに近いと思われます。
「帝(みかど)はなぜ皇族出身である我らを差し置いて、公卿の末席の菅家だけに皇位の相談をしたのか?おかしいではないか!」
同じ元天皇皇子でも、大納言・源能有は寛容でした。
「そうかな。年からしても妥当な選定と思うが」
能有は摂関家と菅原氏両者の親類で、私とも先生とも親密でした。
もちろん、私と先生との間も親密でした。私は先生が参議になった記念に玉帯(ぎょくたい。貴族のベルト)を贈ったくらいです。私の弟・藤原忠平なんかはもっと親密で、先生の姪(めい)と結婚したくらいです。
だから私もこの時はまだ、先生のやることに腹の立つことはありませんでした。
一方、私の師・大蔵善行は怒りが収まりませんでした。
私には言いませんが、ほかの人に怒りをぶちまけました。
「何なんだ! 菅家の異様なほどの気に入られっぷりは! あー、腹立つわー!」
師はずっと前から大外記(だいげき。太政官書記官)のままでした。天皇に気に入られたことも、おいしい兼官をもらったこともありませんでした。
「わしは菅家と並ぶ学閥の領袖(りょうしゅう)だぞ!これでは門下生たちに顔向けができぬ!」
当時、政界・学界は先生率いる菅原学閥と師率いる大蔵学閥の出身者に二分されていました。
大蔵学閥の本拠は、私の曽祖父・藤原冬嗣が創立した大学別曹・勧学院です。
勧学院は主に藤原氏の子弟を教育した、当時最大規模の官吏養成予備校でした。師はその学長的存在だったのです。
主だった弟子は、私ほか仲平(なかひら。「朦朧味」参照)・忠平(「教育味」等参照)といった私の弟たち、三善清行、平惟範(たいらのこれのり)、藤原菅根(すがね)、紀長谷雄(きのはせお)、三統理平(みむねのまさひら)、藤原興範(おきのり)らです。
一方の菅原学閥の本拠は、先生の祖父・菅原清公(きよとも・きよきみ)が自邸内に設立した私塾・菅家廊下(かんけろうか)でした。当初は小規模なものでしたが、先生の目覚しい昇進によって入門者が殺到、百人を超えたといいます。
主だった弟子は、藤原佐世(すけよ)、文室時実(ふんやのときざね)、味酒安行(うまざけ・まさけのやすゆき)らです。
ただし、両学閥は流動的で、菅根や忠平は先生にも師事していますし、先生は長谷雄と、清行は佐世と仲良しです。
「菅家廊下がなんだー! わしはあの基経も教えたんだ! 時平や忠平らも、みんなわしが教えたんだー! わしの背後には摂関家がついている! つぶしてやるー! 菅家なんか、ぶっつぶしてやるー! また左遷にしてくれるわー!」
カッカきていた師に、門下の俊英・平惟範が提案しました。
「左遷よりもいい手があります」
「何だそれは?」
「遣唐使です。菅家を遣唐大使に推薦してはいかがでしょうか?」
「遣唐大使か――。キッキッキ!」
師はうれしそうに笑いました。
唐に渡らせてしまえば、なかなか帰ることはできません。讃岐どころではないのです。しかも危険な航海のため、途中で命を落としてしまう可能性も大いにあるのです。
「そうだ! 唐だ! ヤツを唐に追いやってしまえー!」
師はあまたの弟子たちを総動員して遣唐使派遣運動を始めました。
「西海に跋扈(ばっこ)している新羅の賊を抑えるには、唐と結ぶのが一番!」
「近年多くやって来る渤海使の対応も聞いてみよう!」
「そのために遣唐使を派遣すべし!」
「それも常人ではだめだ。菅家級の天才を遣わすべし!」
また、師は先生をその気にさせることも忘れませんでした。
「唐は楽しいですよ〜」
「長安、見たいですよねー。聞きたいですよねー。行きたいですよねー」
「ああ、悠久の大唐国。文学・歴史好きにはたまりませんなぁー」
「美女もぎょうさんいるで〜」
その結果、寛平六年(894)八月に遣唐使を派遣することが決定、先生が遣唐大使に、紀長谷雄が遣唐副使に任ぜられました。
師は歓喜しました。
「やったぞー! 菅家はその気になった! これは勅命だから、辞退すれば島流しは免れない! ヤツの運命は決まった! 西海の藻屑(もくず)か、モロコシの糞土(ふんど)か、辺境の石ころとなるのだー!」
が、師の陰謀はあっさりと先生本人の変心によって打ち砕かれました。
同年九月、先生は宇多天皇に進言したのです。
「今や唐は滅びかかっています。今の唐に新羅を抑える力などありません。そのようなところに危険を冒してまで学びにいく価値はないものと存じます。他国に学ぶことは大切です。しかしそれ以上に大切なことは、自国の歴史や風土を尊重することです。古来よりわが国にはすばらしい伝統と文化があるではありませんか。他国を模倣する時代は終わりました。日本の良さを生かすためには、遣唐使そのものを停止すべきだと存じます」
こうして遣唐使派遣は停止されました。
遣唐大使の辞退ではありません。先生は遣唐使そのものを停止してしまったのです。
これ以後遣唐使が派遣されることはなかったため、廃止ということになります(遣唐使停止・遣唐使廃止)。
師は地団駄踏んで悔しがりました。
「おのれ菅家ー! まさか遣唐使そのものをなくすなど、思いもよらなかったわー! ああ、腹立つ! 腹立つ! 何かほかに手だてはないのかー!?」
彼のそばには門下一の秀才・三善清行がいました。
清行もまた先生を嫌っていました。
いや、その嫌いようは、師のそれをも越えていたかもしれません。
昔、清行が例の方略試を受けた時のことです。
先生は彼のもう一人の師・巨勢文雄(こせのふみお)の推薦状に、
「清行の才名、時輩に超越す」
と、あるのをみて「超越」の部分を「愚魯(ぐろ。つまりバカ)」に書き改めてあざ笑ったといいます(先生としてみれば、軽い冗談だったと思いますが……)。
それだけではありません。その時の方略試の試験官は先生が務めましたが、清行を不合格にしたのです。
「なぜ私が不合格なんだー!」
清行はその二年後に合格に改められますが、彼はこう考えていました。
「二年後に私を合格させたのは、その年に方略試を受けた長谷雄を合格させたかったからにほかなりません。菅家と長谷雄は親友同士です。親友を合格させるために、長谷雄より頭のいい私を合格させないわけにはいかなかっただけなんです。ケッ!」
以来、清行は先生を目の敵にしているのです。
清行は先生の政策にも反対でした。
「菅家の政策は朝廷の行政改革に逆行しています。菅家は地方の裏金を容認しています。検税使(けんぜいし。税収調査員)派遣に反発しているのはそのためです。朝廷が地方の裏金を取り上げれば、地方の疲弊を招き、災害時に人民が困窮すると主張しているのです。地方の財布を肥やすために、中央を犠牲にしてもいいと言い張っているのです」
「菅家は貧乏人の気持ちがわかるとでもいうのか! 偽善だ! フッ! 民の味方をすれば、中央の公卿や役人たちの猛反発を買って自滅するだけだ!」
「いいえ。小ざかしい偽善者は、自滅はしません。その境界を心得ているのです。我々が何か仕掛けなければ、ヤツが自ら滅びることはないでしょう」