5.そのとき歴史は蠢いた

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菅原道真と藤原時平
1.その男、天才につき
2.天才の甍
3.渡る世間は敵ばかり
4.最後の一屁
5.そのとき歴史は蠢いた
6.東風とともに去りぬ
六国史
日本書紀
続日本紀
日本後紀
続日本後紀
日本文徳天皇実録
日本三代実録
詳細

 去る寛平四年(892)、先代・宇多天皇は、源能有、菅原道真先生、私、私の師・大蔵善行、三統理平の五名に国史編修を命じました。
 六国史の第六番目、清和天皇・陽成
(ようぜい)天皇・光孝天皇三代三十年間の歴史を網羅した『日本三代実録』です。
 巻数は五十巻。これまでの五史のどれよりも詳細で、体制の一貫した歴史書でした。
 これが完成して醍醐天皇に献上されたのは、延喜元年(901)八月のことです。
 でも、そこに編者として名が記されたのは、私と師の二人だけです。能有は編修途中で没し、先生は左遷され、理平は転任した
(左遷?)ため、名前が削除されたのです。

 が、主に編修したのは、先生と師と理平でした。
 能有と私は名誉総裁で、編修中に何が書かれているのかはほとんど知りませんでした。
 しかし、師が私の自邸に訪ねてきたことによって、私はその恐るべき内容を知ることになったのです。

 それは昌泰三年(900)夏頃のことでした。
時平公。例の『三代実録』の件ですが――」
「おお。はかどっておるか? 丸投げですまんな」
「実は困ったことがありまして……」
「なんだ? わからない年代の部分でもあるのか? 史料ならいくらでも金に糸目をつけずに取り寄せてやるぞ」
「いいえ、そうではありません。実は史書はほとんど完成いたしました」
「なんだ。めでたいではないか!」 
「それがめでたくないのです。私が調べたのと菅家が調べたのと記述が食い違っている箇所が多々あるため、まとまらないのです」
 私は不思議に思いました。
「つまり、師か菅家か、どちらかの記述が間違っているというわけだな?」
「そういうことになりますな。たとえば陽成院
(ようぜいいん。陽成天皇→陽成上皇)の廃位の箇所だけでもこんなにも異なっています(「引退味」参照)。どうか見比べてみてください」
 師は、その部分の自分の原稿と先生の原稿の両方を私の前に並べて置きました。
「うむ。菅家のもののほうがだいぶ分厚いな」
「ええ。私の原稿には後世に伝える必要がないことは削除してありますので」
 私は師の原稿を読みました。
 別におかしな点はありませんでした。
「うん。私はこの事件については何度か父に聞かされている。陽成院は病弱だったため、父によって廃位させられたのだ。おおかたこのような顛末
(てんまつ)だ」
「ですか」
 私は次に先生の原稿を取りました。
「では、菅家の記述が間違っているのかな?」
 私は読みました。
 そして、見る見る驚愕
(きょうがく)しました。
「な、な、な……、何だこれは……!」
 読み進めていくうちに、体が震え、息が荒く、動悸
(どうき)が激しくなってきました。
 ぶわさっ!
 私は途中で原稿を放り出しました。とても最後まで読むことができませんでした。

 私はあまりの衝撃に、しばらくガタガタ震えていました。
 やっとのことで、師に聞きました。
「父は、私の父は、こんなに悪いことをしていたのか……?」
 師は否定しました。
「だからそれはウソです。時平公の父君は、偉大なお方でした」
「では、この記述は何なんだ! 私の父はワルではないかっ! まるで極悪人ではないかっ!」
「いいえ、それは偽りです。ウソ八百なのです。すべては菅家の小ざかしき悪計なのです! 菅家は摂関家を悪とする偽書を公表することによって、自らを正当化し、権力を奪取しようとたくらんでいるのです!」
「菅家に野心はない!」
「なぜ菅家を信じなさいます? 天才とは、何を考えているか解らぬものなり!」
「車を出せ! 牛車を出せ! 出かけるっ!」
「どこへ行かれます?」
「陽成院はいまだ存命だ! 当事者に聞けば、どちらの記述が真実であるかは明白であろう!」
 師は慌てました。私の足をつかんで制止しました。
「なりませぬ! 陽成院のところだけは行ってはなりませぬ!」
「なぜだ!?」
「……」
「なぜ行ってはならないのだっ!?」
「……」
「――やはり、事実なのかっ!? 菅家の記述のほうが真実なのだなっ!?」
「……」
「答えよっ!」
「……。行けば、時平公は、立ち直れなくなります……」
「ウワァァァァァーーーー!!」
 私は絶叫して突っ伏しました。
 私は信じたくありませんでした。
 父が悪だとは絶対に信じたくありませんでした。
 私の知っている父は、優しい父でした。どんなときも穏やかな、善の善の模範の父親でした。
「おれは信じない! こんなもんは信じないぞーっ!! 信じてたまるかー!!!」
 師が肩をさすってくれました。
「そうです。信じなければいいのです。時平公は運がよかった。このような偽書が世に出ていれば、とんでもないことになりました。ようはこれを世に出さなければいいのです」
 私は号泣しました。
 師は優しく言いました。
「泣きなさい。忘れなさい。そして、すべてを葬り去るのです」

 翌日、私は先生に会いました。
「読んだよ」
 私は先生に声をかけました。
「何をですか?」
「陽成院廃位の原稿」
「ああ」
 先生は解しました。
 私は先生から顔をそらしました。
「父が悪で、私は悲しかった」
 先生は首を横に振りました。
「尊父は悪ではありません。鬼籍の方に善悪は存在しません。歴史は過去のものです。過去は決して変えられないものです。だが、未来は変えられます。歴史に学び、善を見習い、悪を悔いて繰り返さないことが可能なのです。そのためには、歴史は正しく後世に伝えることです。伝えなければならないのです。つらいことも隠してはなりません。隠せば、後世の人々が再び同じ過ちを繰り返すことになるでしょう」
 私はニコッと作って笑いました。
「ぜひ、ほかの部分も見たい。大蔵の原稿はだめだ。真実を隠しすぎている。薄っぺらで読みごたえもない」
「ええ。ぜひ御覧ください。時平公は若い。正しき歴史を学ぶことは、必ずやあなた様や御子孫のためになることでしょう」

 先生はほかの部分の原稿も惜しげもなく貸してくれました。
 それらにはこれでもかと言わんばかりに衝撃的なことがたくさん書かれていました。
 父の悪事だけではありません。祖父・藤原良房のとんでもない権謀術数も満載でした
(「陰陽味」など参照)
(これが政治というものか……)
 私は、とてもそれらのことをここで公表する気にはなれません。
伴善男は『続日本後紀』において藤原北家台頭の秘密を暴露しようとしたため、良房によって失脚させられた
({「諾威味」「告発味」参照)
 というのもありました。
 先生の母は伴氏出身です。
 つまり、善男がかぎつけた「秘密」を先生は母から伝えられていたのです。
(あなたは正直な歴史家だ。歴史家は中立であり、忠実でなければならない)
 私は静かに笑いました。
(歴史は正しく伝えるべきだ。当然のことだ)
 私は心中で先生に問いかけました。
(だが、その一方で、誰もが自分の父祖は偉大であったと信じていたいものだ……)

 私は先生から借りてきた原稿を燃やしました。
 一枚ずつ一枚ずつ、すべて自分の手で燃やしたのです。
(ごめんな)
 私は先生に謝りました。
 妻の廉子女王
(れんしじょおう。仁明天皇の孫)がやって来て聞きました。
「何を燃やしているのですか? 昔の恋文?」
 子の顕忠
(あきただ)もよちよちとまとわりついてきました。
「とと、あかるいねー」
 私は笑いました。
(この子らの祖父や曽祖父は偉大であった……。この子らのためにも、何が何でも立派でなければならないのだ……。たとえそれがウソであったとしても……)
 私は心の中で先生に問いかけました。
(あなたは歴史のために、父祖や家族を犠牲にできるであろうか? ――いいや、できるはずがない!)

 私は、先生が幼くして死んだ愛児を思う漢詩を知っていました。

   阿満(あまん。道真の子の名)を夢む

  阿満亡じてこのかた夜も眠らず
  たまたま眠れば夢に遭いて涕
(なみだ)漣々(れんれん)たり
  身長 去夏は三尺に余り
  歯
(よはい)立ちて 今春は七年なるべし
  事に従いて人の子の道を知らんことを請ひ
  書を読みて帝京篇を暗誦したり
  薬の沈痛を治むることわずかに旬日
  風の遊魂を引く これ九泉(あの世)
  それより後神を怨み兼ねて仏を怨む
  当初地無く また天も無かりき
  吾が両膝
(ひざ)を看(み)て嘲弄(ちょうろう)すること多し
  阿満已後
(以後)少弟次いで夭せり
  汝が同胞の共に鮮
(若死に)せるを葬れるを悼む
  莱誕
(老莱子。中国の隠者)は珠を含みて老蚌(ろうばう。親蛤)を悲しみ
  荘周
(荘子。中国の思想家)はぬけがらを委(あつ)めて寒蝉(ヒグラシ)に泣けり
  なんぞ堪へん 小妹の名を呼びて求むるに
  忍び難し 阿嬢
(母親)の性を滅して憐れぶに
  始めは謂
(い)ふ 微々として腸暫(しばら)く続くと
  何によりてか 急々に痛むこと煎
(い)るがごとき
  桑狐
(そうこ。桑の弓)は戸の上(ほとり) 蓬矢(ほうし。ヨモギの矢)を加ふ
  竹馬は籬
(まがき。垣根)の頭(ほとり) 葛鞭(かつべん。クズのムチ)を著く
  庭には駐
(とど)む 戯れに栽(う)えし花の旧種(古い種)
  壁には残す 学んで点ぜし字の傍辺
(一部)
  言笑を思ふごとに在るがごとしといえども
  起居を見んと希
(ねが)へば惣(すべ)て茫然(ぼうぜん)たり
  至る処
(ところ) 須弥(しゅみ) 百億に迷はむ
  生るる時の世界 三千暗からむ
  南無観自在菩薩
  吾児を擁護して大蓮に坐
(すわら)せしめよ  

(人は他人の歴史より、父祖の歴史を愛す。他人の繁栄より、自らの栄光を望む。他人の子孫の未来より、自らの子孫の未来を夢見る。それが普通ではないか!)
 私は誓いました。
(私は父や祖父を悪にするくらいなら、自分が悪になってみせる――)

 その年の十月、三善清行が先生に辞職を勧告しました。
「来年は辛酉
(しんゆう)の年、政変の年です。貴殿は学者の家から思いがけず右大臣にまで昇進されましたが、すでに運は尽きていると存じます。貴殿への公卿の反発は頂点に達しております。このあたりが退け時かと存じますが――」
 が、先生はこれを黙殺しました。
 この前年に先生は醍醐天皇に三度辞表を提出していましたが、
「汝は朕を捨てるつもりか」
 と、採り上げてもらえなかったため、あきらめていたのです。

 また、清行は朝廷でも来年が辛酉の年であることを奏上し、政変勃発を声高らかに予言しました。
「来年は大きな政変が起こるでしょう。朝堂の悪しき星が反旗を翻すでしょう。――それが誰かは、あえて申し上げず」

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