6.東風とともに去りぬ

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菅原道真と藤原時平
1.その男、天才につき
2.天才の甍
3.渡る世間は敵ばかり
4.最後の一屁
5.そのとき歴史は蠢いた
6.東風とともに去りぬ

 昌泰四年(901)一月七日、私と先生はそろって従二位に叙せられました。これが先生の最後の叙位となります。
 先生は私をせかしました。
「そろそろ『三代実録』の原稿を返してもらわないと困るのですが……」
 そんなもん、もう地上にありませんので、返せるわけがありません。

 先生は、同じく編修委員を務めている三統理平と、私の弟・忠平を遣わしてきました。
時平公。『三代実録』編修が滞っております。菅家に原稿をお返しください。完成後にまたお借りすればいいではありませんか」
 私は理平に聞きました。
「お前は菅家の味方か?」
 先述したように、理平は師・大蔵善行の弟子であり、私と同門です。
「何をおっしゃられます。私は時平公と同門ではありませんか。ただ、師や菅家や私は『三代実録』を完成させなければなりません。そのためには、時平公のお手元にある原稿が必要なのです」
 私は理平に聞きました。
「お前にとって、歴史とは何だ?」
「歴史とは、正確な記録でしょう。事実に基づいた記録です」
「私にとって、歴史は理想だ。事実ではない」
 理平はハッとしました。不安に思いました。そして、察しました。
「ま、まさか……。時平公は、あの原稿を……」
「だったらどうする?」
「なんてことを!」
 理平は床をたたきながら、目を見開いてツバを飛ばしてまくし立てました。
時平公は編修の責任者でありながら、何も御存じない! 菅家があれだけの原稿をまとめ上げるために、どれだけの労力を要したかをっ! 山のような史書すべてに目を通し、朝から晩まで熟慮考証し、連日徹夜を繰り返し、やっとのことであそこまで仕上げたんですよっ! 歴史は真実を伝えるべきです! 時平公にはあれでも衝撃かもしれませんが、あれでもまだ、摂関家にひいき目に書いてあるんですよっ! それもこれもみな、摂関家の御当主である時平公に気を使ったためではありませんか! それなのに、何が歴史は理想ですかっ! 歴史は事実なり! 真実であるべきなり! 私は同じ歴史家として、時平公の仕業を許せませんっ!!」
 忠平も言いました。
「悪いのは兄上です。兄上は菅先生に謝るべきです! 父も祖父も人間です。いいところも悪いところもそのままに記せばいいではありませんか! 父や祖父のいいところばかりを伝えようなんて、虫が良すぎるのではありませんか?」
 私は言い返しました。
「何とでも言うがいい。私にとって、歴史とは理想だ! 父祖を敬って何が悪い! 先祖を崇拝しないことのほうが許しがたき悪行ではないかっ! 忠平! お前は父祖をおとしめる気かっ!」
「おとしめてはおりません! ただ、父祖は神ではなく、人間だと申したいのです! 『日本書紀』を御覧ください! 神ですら、とんでもない悪さを行っているではありませんか
(「大豆味」「倭国味」等参照) !悪は隠すべきではありません! 悪も歴史の一つなんです! 断じて残すべきですっ!」
「お前らとやり合っている暇などない! すでに事は進めている!」
「何をですかっ!?」

 私は席を立ちました。
 すぐに内裏へ向かいました。
 そして、醍醐天皇に讒言
(ざんげん)したのです。
右大臣菅原道真が謀反をたくらんでおります」
 醍醐天皇は仰天しました。
「何だと……!? そんなはずはない! ありえない! 物騒な冗談は聞きたくないぞ」
「冗談ではありません。菅家は辛酉の今年に合わせて政変をたくらんでいたのです。三善清行はそれを察し、事前に警告を発していたのです。菅家は帝を廃し、自分の娘婿である斉世親王を即位させるつもりなのです!」
 私の言葉は、十七歳の少年帝を震え上がらせるには十分でした。
「どうしよう〜!? ――そうだ! 父に聞いてくるっ」
「行ってはなりません! 法皇は菅家の味方です。法皇は菅家の娘たちに籠絡
(ろうらく)されているのです」
 先生の娘・衍子
(えんし)宇多法皇の女御になっていました。
 また、もう一人の娘・寧子
(ねいし)も後宮で典侍(ないしのすけ・てんじ。内侍司次官)を務め、法皇の寵愛(ちょうあい)を受けていたのです。
「えー! 父上もグルぅ〜!」
 醍醐天皇は困りました。あたふたしました。大いに嘆きました。
「ああ、父は豪腕だ。右大臣は天才だ。朕はこの二人に策なくして追い落とされてしまうのかぁ〜!」
「追い落とされることを待つことはありません。策はございます」
「え! 何かいい手があるのか?」
「菅家を左遷させることです」
「う、させん……」
「帝の命令は絶対です。左遷の宣命
(天皇の命令)を下してしまえば、さすがの菅家も反抗できません」
「父上は?」
「法皇には内緒です。事がすむまで蚊帳
(かや)の外に置いておきましよう」
「後で怒られない?」
「私がお守りいたします! それとも帝は、島流しにされたいのですか? 菅家の悪計にたぶらかされ、鬼どもが住む遠くの島の暗い塀の中で、臭いメシを毎日たらふく食べたいのですかっ!?」
「怖い〜。いやだ〜」
「だったら即刻右大臣を左遷にするべし! 右大臣は明日にでも仕掛けてくるつもりです! もはや時間がありません! やるか? やられるか? さあ! どっち!?」
「うわぁー、左大臣も怖いぃ〜」

 昌泰四年一月二十五日、それはまさしく青天の霹靂(へきれき)でした。
 突如として醍醐天皇が先生を左遷する宣命を下したのです。
 先生にこれを届けた勅使は、式部権少輔
(しきぶごんのしょう)・藤原清貫(きよつら。藤原保則の子)でした。
右大臣菅原道真は低い身分に生まれたにもかかわらず、身の程知らずに専横し、腹黒き心でウソを言いまくり、法皇をだまして皇位転覆をたくらもうとした。本来であれば法律に照らして処罰するところであるが、特に思うところがあるため、これを大宰権帥
(だざいのごんのそち。九州知事補佐)として左遷することにする」

 先生が醍醐天皇や私に抗議することはありませんでした。
 その代わり、忠平が血相変えて押しかけてきました。
「兄上! 今すぐ帝の宣命を撤回させてください! 菅先生に逆心がないことは、あなたは誰よりも御存知のはずではありませんか! 菅先生が公卿に疎まれて四面楚歌
(しめんそか)に陥ったときも、あなたは最後まで先生をかばっていたではありませんか! 国史編修なんて、何度でもやり直せます! 先生は日本の至宝です! このような些細(ささい)なことで、何にも替えがたい、かけがえのない国の宝をつぶしてはなりません! 撤回をっ!」
 弟の必死の説得にも、私の心が動くことはありませんでした。動かされることは許しがたいことだと、自分に言い聞かせたのです。
 私は忠平に言い残しました。
忠平よ。お前だけは最後まで菅家の味方でいてくれよ」
「兄上ぇぇーー!!」

 一方、先生の突然の左遷を聞かされた宇多法皇も、仁和寺を飛び出し、内裏に駆けつけてきました。
 が、滝口の武士たちが門を開けてくれません。
 滝口の武士とは内裏を守備するために置かれた武士のことです。蔵人所所属で、寛平年間に宇多天皇
(当時)によって設置されましたが、皮肉にも宇多法皇はかつての部下たちによって閉め出されてしまったのです。
 宇多法皇は激怒しました。
「朕は法皇である! 天皇の父である! 父が子に会うものを阻むものがあるかっ!」
 武士たちは怖気づきましたが、
「帝の御命令である! 事がすむまで絶対に通してはならぬ!」
 蔵人頭兼右近衛少将
(うこのえしょうしょう)・藤原菅根(すがね)の指示によって俄然(がぜん)強気になりました。
 宇多法皇は菅根に言い放ちました。
「お前は菅家の味方ではなかったのか? 菅家に大恩があるのではなかったのかーっ!」
 菅根はもとは師の弟子でしたが、先生に官職を斡旋
(あっせん)してもらってからは先生に師事していたのです。
 が、菅根は言い張りました。
「私は大儒・大蔵善行の無二の弟子なり!」
「この、裏切り者ぉー! 恩知らずー!鬼ー!悪魔ーっ!」
 宇多法皇は散々ののしりましたが、中に入れないのではどうしようもありません。一晩粘った後、すごすごと仁和寺へ帰っていきました。

●昌泰の変主要処罰者●

処罰者 関係・罪名 前官→左遷官
菅原道真 右大臣→大宰権帥
菅原高視 道真の子。 大学頭→土佐介
菅原景行 道真の子。 式部大丞→駿河権介
菅原兼茂 道真の子。 右衛門尉→飛騨権掾
菅原淳茂 道真の子。 文章得業生→播磨国司
源 善 謀反教唆。 右近衛権中将→出雲権守
源 巌 善の弟。 ?→能登権掾
源 敏相 中宮大進→但馬権守
源 美利 ?→阿波権守
和気貞興 少納言→美作守
大春日晴蔭 右大史→三河掾
勝 諸明 ?→遠江権掾
良峰貞成 ?→長門権掾
山口高利 右馬属→伯耆権目

 二十七日、先生の連座者も表のように左遷が決定しました。

 また、三統理平は先生の一味ではありませんでしたが、私に歯向かったため後に越前介に転任させられています。
 先生の弟子は諸官司にはびこっていたため、本当はもっと多くの処罰者が出るはずだったのですが、
「菅家の弟子は役人たちの過半を占めております。すべてを罰しては、諸官司の運営が立ち行かなくなります」
 三善清行の心憎い進言により、最小限にとどめられました。

 二月一日、先生は次の名句を残すと、左衛門少尉(さえもんのしょうい)・善友益友(よしとものますとも)ほか兵衛(ひょうえ)二名によって、あわただしく配所の大宰府に護送されました。

  東風吹かば匂いおこせよ梅の花
   主なしとて春を忘るな

 付き従ったのは老僕・味酒安行(うまざけ・まさけのやすゆき)と幼子二人だけだったといいます。
 先生は下戸でしたので、都では梅をつまみに茶を愛飲していましたが、左遷後は無理に酒も口にしたそうです。
「ああ、都に帰りたい」
 先生はしばらくそう願っていたようですが、病気で死期が近くなると、こう遺言したそうです。
「遺体はこの地で埋葬せよ。心醜き人々のいる都へは帰りたくはない」

 延喜三年(903)二月二十五日、先生は大宰府で亡くなりました。享年五十九。

 私と師の連名で『日本三代実録』が完成したのは昌泰四年改め延喜元年(901)八月、つまり先生が左遷された半年後のことです。
 この翌月、私は師の七十歳のお祝いを、城南水石亭
(京都市伏見区)にて盛大に催しました。
 参加者は師と私のほか、三善清行、平惟範、藤原菅根、そして、忠平、三統理平らです。つまりこれは、菅原学閥を追い落とした大蔵学閥の祝勝会だったわけです。

 私が死んだのは延喜九年(909)四月四日のことです。享年三十九歳でした(「入試味」参照)
 私やその一族・一味の不幸を先生のたたりだと考える人がいますが、いかがでしょうか? 少なくとも私はそのことについては触れたくありませんので、いずれ誰か別の人が語ることと思います
(「入試味」参照)

 私の死後、私の子孫は栄えず、摂関家の系統は忠平に移りました。
 忠平の代にも『日本三代実録』に次ぐ、七国史目の史書編修の話が持ち上がりました。
 が、忠平は、決してそれを行おうとしませんでした。
「ニセの歴史を後世に書き残したところで、いったい何の意味があろうか?」

[2008年1月末日執筆]
参考文献はコチラ

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