76.受験味 基礎用語集

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阿衡の紛議(あこうのふんぎ)=阿衡事件
 (887-888)宇多天皇(うだてんのう)と藤原基経(ふじわらのもとつね)との間に起こった政争。887宇多天皇即位時の基経を関白に任じた勅書に「阿衡」とあるのをみて、基経が阿衡に職掌なしとして政務を放棄した。勅書を作成した橘広相(たちばなのひろみ)は困惑し、888宇多天皇が譲歩して勅書を撤回、基経は娘の温子(おんし)を入内させた。スト味

在原業平(ありわらのなりひら)
 (825-880) 歌人・官人。六歌仙(ろっかせん)・三十六歌仙の一人。右近衛権中将。阿保(あぼ)親王の王子。平城(へいぜい)天皇の孫。『古今和歌集』に三十首収録。歌物語『伊勢物語』の主人公として知られる。 

一条兼良(いちじょうかねら・かねよし)
 (1402-1481) 公卿。関白・太政大臣。有職故実書『公事根源(くじこんげん)』『桃華蘂葉(とうかずいよう)』、政道書『樵談治要(しょうだんちよう)』『文明一統記』、古典注釈書『花鳥余情(かちょうよじょう)』『日本書紀纂疏(にほんしょきさんそ)』、紀行文『藤河(ふじかわ)の記』等を著した。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

宇多法皇(うだほうおう)←宇多上皇(じょうこう)←宇多天皇←源定省(みなもとのさだみ)
 (867-931) 伝五十九代天皇(在位887-897)。光孝(こうこう)天皇皇子。884臣籍降下されるが、887父の死後に即位、887-888阿衡(あこう)の紛議で関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)と対立するが、891基経死後に寛平(かんぴょう)の治を断行、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用し、摂関家を抑制、長子・醍醐(だいご)天皇に譲位し、『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』を残した。スト味 受験味

小野道風(おののとうふう・みちかぜ)
 (894-966) 官人・書家。書道三蹟・三聖の一。内蔵頭。葛絃(くずお)の子。醍醐(だいご)・朱雀(すざく)・村上天皇に仕え、宮中の書を執筆、「屏風土代(びょうぶどだい)」「玉泉帖」「三体白氏詩巻」などを残した。

外戚(がいせき)
 母方の親族のこと。蘇我(そが)・藤原(ふじわら)氏・平(たいら・へい)氏は天皇家の、北条(ほうじょう)氏は源(みなもと・げん)氏の、安達(あだち)氏は北条氏の、日野(ひの)氏は足利(あしかが)氏の外戚として権力を握った。

勘解由使(かげゆし)
 令下官(りょうげのかん。律令未規定の官職)の一つ。官人交替事務を監査した。797桓武(かんむ)天皇が国司交替の際の不正を防ぐために設置。806廃止。824再置。

勧学院(かんがくいん)
 大学別曹(だいがくべっそう)の一。821藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が大学に通う藤原氏の子弟ために大学南隣に創設。1177大火で大学焼失後も復興されたが、鎌倉時代末期までに衰退した。

漢詩(かんし)
 中国伝統の詩歌。漢字でつづった歌。四言・五言・七言から成るものが多く、日本ではこれを基にした五、七調が多い。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。717-735唐に留学し、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を務めたが、藤原仲麻呂の圧力で一時左遷、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師として活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室浄三(ふんやのきよみ)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。

京職(きょうしき)=左京職(さきょうしき)+右京職(うきょうしき)
 律令制における都庁・司法警察官庁。長官は左京大夫(さきょうのだいぶ)と右京大夫(うきょうのだいぶ)。左京を左京職が、右京を右京職が統治した。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

空海(くうかい)=弘法大師(こうぼうだいし)
 (774-835?) 僧。真言宗・書道大師流の祖。書道三聖・三筆の一。佐伯田公(さえきのたきみ)の子。上京して大学へ学んだ後に出家し、804遣唐使に従って入唐、青竜寺の恵果(けいか)に密教を学んで806帰国し、高雄山寺に居住、816嵯峨天皇に高野山を賜り金剛峰寺を、823東寺を賜り教王護国寺(きょうおうごこくじ)を創建して真言宗を布教、824少僧都・827大僧都となり、828綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創設、『三教指帰(さんごうしいき)』『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』などを著し、最澄(さいちょう)宛の書簡「風信帖(ふうしんじょう)」を残した。三密味 引籠味

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

蔵人所(くろうどどころ)
 令外官(りょうげのかん)の一。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった役所。810嵯峨(さが)天皇が設置。長官は蔵人頭(くろうどのとう)。後にその上に別当(べっとう)が置かれた。事務所は内裏(だいり)校書殿(きょうしょ)にあった。詐欺味1

蔵人頭(くろうどのとう)
 蔵人所(くろうどところ)長官。定員二人。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。詐欺味1

源氏物語(げんじものがたり)
 平安時代の物語。紫式部(むらさきしきぶ)作。五十四帖。光源氏(ひかるげんじ)とその子・薫(かおる)を主人公とする宮廷大河小説。

遣唐使(けんとうし)=入唐使(にっとうし)=もろこしの使い
 (630-894) 古代に日本から唐(とう)に派遣された公式使節。飛鳥〜平安時代に19回にわたって任命された(渡海は15回。諸説あり)。初代遣唐大使は犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)。以後、高向玄理(たかむこのくろまろ・げんり)・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)・玄ム(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)・最澄(さいちょう)・空海(くうかい)・円仁(えんにん)・円珍(えんちん)ら名だたる著名人が渡海し、さまざまな文物をもたらした。最後の遣唐大使は菅原道真(すがわらのみちざね)だが、894停止を建議して廃絶した。

遣唐使停止(けんとうしていし)=遣唐使廃止
 894飛鳥時代から続いていた遣唐使を停止したこと。894菅原道真が遣唐大使に、紀長谷雄(きのはせお)が遣唐副使に任じられるが、道真は唐の疲弊と航海の危険を理由に宇多天皇に遣唐使の停止を建言し、受け入れられた。唐が滅亡したのは907。
受験味2

光孝天皇(こうこうてんのう)←時康親王(ときやすしんのう)
 (830-887) 伝五十八代天皇(在位884-887)。仁明(にんみょう)天皇皇子。太宰帥(だざいのそち)・式部卿(しきぶきょう)等を歴任した後、884藤原基経に擁立されて即位、基経を実質上の関白に任じた。スト味

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が任じられたのが最初。 

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。八省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、寮は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。

聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやどのおうじ・うまやどのみこ)
 (574-622) 摂政(在任593-622)。587蘇我馬子(そがのうまこ)とともに物部守屋(もののべのもりや)を討ち、594仏教興隆の詔を発表、593推古(すいこ)天皇の摂政となり、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)を建立、603冠位十二階を・604憲法十七条を定め、607小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使(けんずいし)を派遣、斑鳩(いかるが)に法隆寺(ほうりゅうじ)を建て、611注釈書『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』・614『維摩(ゆいま)経義疏』・615『法華(ほっけ)経義疏』・620史書『天皇記』・『国記』を編集した。
日朝味4 憲法味

新羅(しらぎ・しんら)
 (前57?-935) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀前半に辰韓(しんかん)十二国を統一、唐と連合して西の百済(くだら)と北の高句麗(こうくり)を滅ぼし、684朝鮮半島を統一するが、935高麗(こうらい)によって滅亡した。

菅原道真(すがわらのみちざね)
 (845-903) 学者。公卿。右大臣。書道三聖の一。是善(これよし)の子。877文章(もんじょう)博士になり、894遣唐使(けんとうし)廃止を進言、887〜888阿衡(あこう)の紛議に意見して宇多(うだ)天皇の信頼を得、892史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』を編集、893参議になり、899右大臣に昇って正史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』・詩集『菅家文集(かんけぶんそう)』を編集するが、901左大臣・藤原時平(ときひら)によって大宰府(だざいふ)に左遷され(昌泰の変)、任地で没して怨霊となり、天神として祭られた。スト味
受験味

清和天皇(せいわてんのう)←惟仁親王(これひとしんのう)
 (850-880) 伝五十六代天皇(在位858-876)。父は文徳(もんとく)天皇。母は藤原良房(よしふさ)の娘・明子(あきらけいこ・めいし)。父の死で九歳で即位し、藤原良房が摂政として補佐、876陽成(ようぜい)天皇に譲位し、清和源氏の祖となった。

摂関家(せっかんけ)
 代々天皇の外戚となって摂政・関白を世襲した家柄。藤原北家の嫡流。良房(よしふさ)・基経(もとつね)に興り、道長(みちなが)・頼通(よりみち)の代で確立、院政期に三家(近衛・松殿・九条)に、鎌倉時代初期に五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に分裂した。

摂関政治(せっかんせいじ)
 10〜11世紀に藤原氏が天皇の外戚となり、摂政・関白職を独占して主導権を握った時代。安和の変後に摂関は常置となるが、院政が始まると衰退した。

大学(だいがく)≧大学寮(だいがくりょう)
 古代の最高学府。律令における中央の官吏養成機関。式部省所属。長官は大学頭。教官は博士一名・助教二名。学生は四百名で、主に五位以上の子弟が学んだ。1177大火で焼失後は復興されなかった。

大学別曹(だいがくべっそう)
 大学に通う学生(がくしょう)のために有力貴族が設立した寄宿舎および大学付属機関。藤原氏の勧学院(かんがくいん)、和気(わけ)氏の弘文館(こうぶんかん)、橘(たちばな)氏の学館院(がくかんいん)、在原(ありわら)氏・王氏の奨学院などが有名。

醍醐天皇(だいごてんのう)←敦仁親王(あつぎみしんのう)
 (885-930) 伝六十代天皇(在位897-930)。宇多(うだ)天皇の皇子。897父から「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」と皇位を譲られて即位、摂政・関白を置かず、902延喜の荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発令、藤原時平(ふじわらのときひら)らに『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』「延喜格式(えんぎきゃくしき)」を、905紀貫之(きのつらゆき)らに『古今和歌集』を編集させ、907延喜通宝を鋳造、914三善清行(みよしきよゆき)らに意見封事を上申させるなど天皇親政を行ったため、後世に延喜の治と呼ばれた。受験味 詐欺味3

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

滝口の武士(たきぐちのぶし)=滝口=滝口武者
 平安〜鎌倉時代に滝口(内裏の清涼殿の北東)に詰めていた武士のこと。宇多天皇が用心棒として設置したのが始まり。蔵人所所属で、腕の立つ者が雇われた。定員十名。後、三十名。

大宰府(だざいふ)
 九州に置かれた古代の官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった。朝廷の出張所で、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた。長官は大宰師(だざいのそち)。1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。

太政官(だいじょうかん・だじょうかん)
 
律令制において神祗官(じんぎかん)と並ぶ中央の最高行政機関。八省以下すべての官庁を統括。事務局としてし少納言局・弁官局をもつ。

近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
 (1653-1724) 浄瑠璃・歌舞伎(かぶき)作家。宇治加賀掾(うじかがのじょう)に師事した後、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために浄瑠璃の脚本を、坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)のために歌舞伎の脚本を執筆、竹本座の専属作家として時代物(じだいもの。時代・歴史もの)や世話物(せわもの。恋愛・ホラーもの等)を手がけた。作品『国性爺合戦(こくせんやかっせん。国姓爺合戦とも)』『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』『冥土(めいど)の飛脚(ひきゃく)』等。
心中味

長安(ちょうあん・チャンアン)
 中国の古都。漢・唐などの首都。中国・陜西省西安(せいあん・シーアン)市所在。東西九・七キロ、南北八・二キロ、中国初の条坊制計画都市で、日本の平城京・平安京、渤海(ぼっかい)の上京などはこれをまねて造られたものといわれている。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では象徴。
女帝味

(とう)
 (618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗(こうくり)を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。

伴 善男(とものよしお)
 (811-868) 公卿。摂政・太政大臣。大伴(伴)国道(くにみち)の子。844右少弁(うしょうべん)になり、846善ト(ぜんがい)訴訟事件を経て847蔵人頭(くろうどのかみ)・848参議に昇進、855藤原良房(ふじわらのよしふさ)らと『続日本後紀(しょくにほんこうき)』編集に携わり、中納言を経て864大納言に昇進するが、866応天門(おうてんもん)の変で失脚、伊豆へ流された。告発味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

省 名 主な職掌
中務(なかつかさ)省 天皇の重要事務
式部(しきぶ)省 学校管理・文官人事
治部(じぶ)省 冠婚葬祭・外交
民部(みんぶ)省 民政
兵部(ひょうぶ)省 軍事・武官人事
刑部(ぎょうぶ)省 刑罰・訴訟
大蔵(おおくら)省 出納・宝物管理
宮内(くない)省 宮中庶務

日本書紀(にほんしょき)
 日本最古の勅撰歴史書。六国史の第一。編年体。30巻。系譜1巻(現存せず)。舎人親王(とねりしんのう)・藤原不比等らが編集。神代〜持統朝までを収録。

八省(はっしょう)
 律令制において太政官に直属する八つの官庁の総称。八省の名称および職掌)は右のとおり。

林羅山(はやしらざん)=林道春(どうしゅん)←林信勝(のぶかつ)
 
(1583-1657) 儒学者。藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、彼の推薦で徳川家康に仕え、武家諸法度制定や「寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)」編集等に関与、神儒集合の理当心地神道を唱え、キリスト教を排除、秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)・家綱(いえつな)四代の侍講を務め、1630上野忍岡(しのぶがおか)に家塾弘文館を創設、林家の祖となり、『羅山文集』を残した。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
 特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代に北家の嫡流である摂関家は五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。

藤原忠平(ふじわらのただひら)
 (880-949) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原基経(もとつね)の子。母は人康親王(さねやすしんのう)の女。時平(ときひら)らの弟。900参議になるが辞退し、908還任、914右大臣となり、927『延喜式』を完成、930朱雀(すざく)天皇の摂政に就き、935-941承平・天慶の乱を平定、941関白に転じ、日記『貞信公記(ていしんこうき)』を残した。
受験味 入試味 教育味 悪党味 悪党味

藤原時平(ふじわらのときひら)
 (871-909) 公卿。左大臣。藤原基経(もとつね)の子。901右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷し、醍醐(だいご)天皇による延喜の治(えんぎのち)に協力、『日本三代実録』『延喜格式』編集を主導した。
受験味

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
 (775-826) 公卿。左大臣。内麻呂(うちまろ)の子。嵯峨(さが)天皇に信頼され、810巨勢野足(こせののたり)とともに初代蔵人頭(くろうどのとう)に就任、娘・順子(じゅんし)を正良親王(まさよししんのう。後の仁明天皇)に嫁がせ、後の道康親王(みちやす。文徳天皇)を出生、天皇家の外戚(がいせき)として力を持ち、821大学別曹(だいがくべっそう)・勧学院(かんがくいん)を設立して子弟を教育、820法令集『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』・勅撰儀式書『内裏式(だいりしき)』を編集した。 

藤原基経(ふじわらのもとつね)
 (836-891) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原長良(ながら)の子。藤原良房(よしふさ)の養子。879正史『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』を完成、884陽成(ようぜい)天皇を廃して光孝(こうこう)天皇を擁立、887宇多(うだ)天皇によって臣下で初めて関白(かんぱく)に任じられたが、887-888阿衡(あこう)の紛議を起こして困らせた。スト味

藤原良房(ふじわらのよしふさ)
 (804-872) 公卿。摂政・太政大臣。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子。妻は嵯峨天皇皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)。842嵯峨天皇没後、承和(じょうわ)の変で恒貞親王を廃し、通康(みちやす)親王(文徳天皇)を擁立、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らを追放し、857臣下で初めて太政大臣に就任、866応天門(おうてんもん)の変で伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)を追放し、臣下初めて清和(せいわ)天皇の摂政(せっしょう)に就任、869正史『続日本後紀(しょくにほんこうき)』を完成させた。告発味

弁官局(べんかんきょく)=左弁官局(さべんかんきょく)+右弁官局(うべんかんきょく)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)の事務局。左弁官局は中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(じぶ)・民部(みんぶ)四省を担当し、右弁官局は兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵(おおくら)・宮内(くない)四省を担当した。

渤海(ぼっかい)
 (698-926) 中国東満州・沿海州にあった国。698大祚栄(だいそえい)が震(しん)を建国、713渤海と改称し、唐と対立、727初めて日本に使者を遣わし、平安時代まで三十四回に及んだ。十代・大仁秀(だいじんしゅう)のときが最盛期で「海東の盛国」と呼ばれたが、926契丹(きったん)に滅ぼされた。

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう平安中期以降、宗家は摂関家として繁栄、良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出した。

源義経(みなもとのよしつね)
 (1159-1189) 武将。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けて育ち、1180兄の挙兵に参加、1184源義仲(よしなか)を滅ぼし、一の谷(いちのたに)の戦・屋島(やしま)の戦・1185壇の浦(だんのうら)の戦で平氏を破って滅ぼしたが、兄・頼朝と不和になり、陸奥平泉(ひらいずみ)で藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に殺された(北海道以北に落ちのびたという説もある)。

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦で大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦で平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

三善清行(みよしのきよゆき・みよしきよゆき)
 (847-9189) 学者・官人。文章博士。氏吉の子。大蔵善行(おおくらのよしゆき)らに師事し、菅原道真(すがわらのみちざね)と対立、901道真左遷(昌泰の変)後に醍醐(だいご)天皇に「延喜」改元をさせ、914意見封事十二箇条を提出した。
受験味取違味

吉田松陰(よしだしょういん)
 (1830-1859) 武士・思想家・教育者。長門萩(長州)藩士。江戸で佐久間象山(さくましょうざん)に師事し、一人の君主に万民が従うという一君万民論を提唱、1854ペリー来航の際に密航を企てたが失敗し、叔父・玉木文之進(たまきぶんのしん)が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰、高杉晋作(たかすぎしんさく)・久坂玄瑞(くさかげんずい)・前原一誠(まえはらいっせい)・伊藤博文(いとうひろぶみ)らの人材を育てたが、1858-1859安政の大獄で処刑された。

六国史(りっこくし)
 奈良〜平安時代にかけて編集された正史のこと。以下六つ。

書名 成立年 巻数 編集者 編集範囲
日本書紀 720 30+1 舎人親王・紀清人ら 神代〜持統
続日本紀 797 40 菅野真道・藤原継縄ら 文武〜桓武
日本後紀 840 40 藤原緒嗣・源 常ら 桓武〜淳和
続日本後紀 869 20 藤原良房・春澄善縄ら 仁 明
日本文徳天皇実録 879 10 藤原基経・大江音人ら 文 徳
日本三代実録 901 50 菅原道真・藤原時平ら 清和〜光孝

※日本書紀の+1は系譜一巻(現存せず)

和歌(わか)
 日本固有の詩歌。古代歌謡の流れを汲む五音・七音を基調とする短歌・長歌・旋頭歌などの総称。『万葉集(まんようしゅう)』で確立され、平安時代以降は主に短歌をさすようになった。

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