★ 奈良茂vs紀文

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大王製紙巨額借り入れ事件
★ 奈良茂vs紀文

 しんしんしん。
 雪が音もなく降っていた。
 しんしんしん。
 江戸に珍しい積もる雪である。
 時は宝永四年(1707)正月。
 所は吉原。中心街「仲の町」にある巴屋
(ともえや)

現在の吉原(東京都台東区)周辺

「風情だなー」
 二階から雪見をするのは紀伊国屋文左衛門
(きのくにやぶんざえもん)
「わしは雪が見たかった。今まで誰も足を踏み入れていない、誰も触ってもいない、まっさらスベスベな雪が――」
 そのために文左衛門は巴屋だけではなく、両隣の松葉
(まつば)屋と玉(たま)屋も借り切っていた。
 で、人が雪道の上を歩かないよう、垣をこしらえて通行止めにしたのである。
「それを今夜、わしは独り占めにする。柔らか〜な、真っ白〜な、甘〜い雪綿に包まれて眠るのだ」
「やらし〜」
 誰かが吹き出した。花魁
(おいらん。高級遊女)か禿(かぶろ。遊女見習いの童女)であろう。
 文左衛門は振り向いた。
「今、誰が言った?」
「私じゃないですよ」
「おまえか?」
「違います〜」
「おまえだな!」
 ぶわさ!
「キャー!キャー!」
 ふざけていた文左衛門に、番頭・治兵衛
(じへえ)が近寄って耳打ちした。
「だんなさま。向かいの信濃
(しなの)屋に知った顔が」
 文左衛門の顔がマジになった。
「誰だ?」
「奈良屋茂左衛門
(ならやもざえもん)です」
「奈良茂か」
 文左衛門は信濃屋を見やった。
「番頭の市兵衛もいますね。あと、お糸さまも」
 お糸は茂左衛門の妻で、文左衛門の妹
(または娘)であった。
 文左衛門は苦笑した。
「ケッ!こんなところへ女房同伴で来るなよな」
 ちなみにこの文左衛門が二代目なのか初代なのかは断定しがたい。

 一方、茂左衛門の方も、五代目と四代目(または二代目か初代)の逸話が混同している(「奈良屋系図」参照)
 茂左衛門のほうでも、文左衛門が巴屋にいることに気がついていた。
「あなた。ほら、巴屋に――」
「お、紀文じゃないか」
 市兵衛も巴屋をのぞいた。
「まるで自分の庭のように雪見をしてますね。勝手に往来を通行止めにして、通行人たちがかわいそうですよ」
「それに、あんなにたくさん花魁連れてベタベタと。恥ずかしい!」
 茂左衛門はいいことを思いついた。
「ちょっと、こらしめてやるか。市兵衛。銭を入れた樽
(たる)は持ってきたか?」
「ええ。二杯持ってきました。二十両分ぐらい入ってますが」
「よし。『今から奈良屋が銭をばらまくから、誰でもいいから信濃屋の前に拾いに来なさい』と札に書いて、大門前の高札に貼
(は)ってきなさい」
「へい」
 吉原は四方を堀で囲まれており、出入口は大門一つである。
 その大門の前に高札場がある。
 市兵衛は言われたとおり、そこへ札を貼りに行った。

 たちまち、高札の前にド貧民たちが集まってきて騒ぎ始めた。
「おい!信濃屋の前で『銭まき』があるってよ!」
「あの奈良屋がまくんだってよ!」
「スゲエ!二十両分だってよー!」
「早い者勝ちだぜえ!」
 ド貧民たち数百人はドッと大門へ突入、ドヤドヤと仲の町へ繰り出し、ガヤガヤと信濃屋の前で群がった。
 市兵衛が茂左衛門に知らせた。
「大勢来ました」
「よし。もういいでしょう。銭をまきなさい」
 茂左衛門、もう一つ付け足した。
「なるべく。巴屋のほうへ向けてまくんだぞ」
「がってん」
 市兵衛はまき始めた。
「みんな、いくぞー!」 
 じゃらん!じゃららん!
 バラバラバラバラ!
「うわー!」
「銭だ!銭の雨だ!」
「それー!もっとだー!」
 じゃらららじゃらじゃら!
 ごちん!ごちん!ごちん!
「豪雨だ、豪雨!」
「痛てえ痛てえ!」
「でも、うれしー!」
 バラバラバラ!
「また、降ってきた!」
「樽を傾けたぞ!」
 じゃらららららららららら!
 じゃらららららららららら!
 じゃらららららららららら!
 ふいぃばあぁ〜!
「うっひょー!」
「滝のようだ!」
 びたびたびたびたびたびた!
 ぢゃぢゃらぢゃらりんこんころりーん。
「しまった!こんな降ってくるんなら、かごでも持ってくるんだった〜」
「熊手
(くまで)ならあるぞ」
「よし、かき集めろ!」
 がし!がし!がし!
「集めた!」
「それをまとめておいらの懐へ」
「自分で拾えよなっ!」
「めんどい〜」
「おまえにはこれだ!」
 どわさ!
「冷たっ!雪は入れるなあー!」

 銭がまかれればまかれるほど、ド貧民たちが騒げば騒ぐほど、文左衛門は腹が立ってきた。
「わしの雪見が……」
 静寂も、美しいまっさらな雪原も、もうそこにはなかった。
「わしが今晩独り占めにしようとしていた雪見が……」
 そんなものはド貧民たちによって無惨に踏みしだかれていた。
「『泥見』になっちまったじゃねーかあー!」
 文左衛門は激怒した。
「おのれ奈良茂!許さんぞー!よくもわしの高慢の鼻をへし折ってくれたな!そんならわしは、キサマがとうていマネできないことをやってやらあー!」
 文左衛門は治兵衛を手招きした。
「何でしょうか?」
「伽羅
(きゃら)を持ってこい」
「きゃら!」
 治兵衛は仰天して止めた。
「いけません!そんな、家伝の最高級香木を煙にしてしまうなんてっ!」
 文左衛門は聞かなかった。
「うるせー!このままでは、天下の紀文大尽の名が廃るわー!伽羅を焚
(た)け!どんどん焚くのだー!」

 しばらくして、えもいわれぬいい香りが漂ってきた。
 ほわわ〜ん。
 かぐわしい香りは向こう三軒両隣どころか、仲の町全体に漂い広がった。
「うーん。いい香り〜」
「何かしら、この香りは?」
「どっから香ってくるんですかね?」
 花魁も禿も幇間
(ほうかん・たいこもち。男芸人)たちもトロトロになった。
 茂左衛門は気づいた。
「伽羅だ」
 お糸はプリプリ怒った。
「兄さんったら、何を考えているかしら!つまらない見栄のために家伝の香木を焚いちゃうなんて!もったいないったらありゃしない!」

 文左衛門が巴屋から挑発した。
「どうだ、奈良茂!これほどのマネがお前にできるか?できねーよなっ!てめーの大尽遊びなど、わしの足下にも及ばないわ!ハッハハハハハ!愉快愉快!悔しかったら、てめーも伽羅を焚いてみやがれってんだ!ギャハハッヒー!」
「あのヤロー!」
 戦闘モードに入った茂左衛門を、お糸がたしなめた。
「あなた。兄さんはバカなんです。相手にしなさんな。相手にすれば、バカがうつりますよっ」
「ヨッシャー!負けずにこっちも焚いてやらあー!」
「あなたっ!」
「市兵衛、ちょっと来い」
「へい」
「あなた、ダメです!だいたいうちに伽羅なんてないじゃないですか!」
「あっちが伽羅なら、こっちは伽羅よりすごいものを焚いてやるっ!市兵衛、今から言うものをありったけ買ってこいっ」
 ヒソヒソヒソ。
「分かりました」
「やめてー!いったい何を焚くって言うのよー!?」

 またしばらくして、何かが香ってきた。
「あれ?何このにおい」
 花魁や禿や幇間たちが気づいた。
 ぷ〜ん。もよよ〜ん。
 香ってきたというより、におってきた。
「何かにおわない?」
「伽羅だろ?」
「じゃなくて、伽羅より強烈な――」
 文左衛門は笑った。
「伽羅より強烈なにおいなんてあるもんか」
 が、クンクンしてみてハッとした。
「こ、こっ、このにおいはっ!ま、まっ、まさかー!?」
 彼はバッと外を見た。
 階下を見回してみた。
 すると、市兵衛が荷車にどっさり積んできた魚の干物を盛んに焼いていた。
 文左衛門は絶叫した。
「ゲエ!『くさや』を焼いていやがるー!」
 市兵衛は次々と「くさや」を焼くと、ド貧民たちに配って回った。
「みなさん、どーぞ召し上がれ」
「ありがてえ!」
「おかずまで下さるとは、奈良屋サマサマだー」
「くさや、うまっ!」
 ド貧民たちは喜んで食べていたが、巴屋のほうは大迷惑であった。
 もよよ〜ん。もわっ!もわっ!どよよ〜〜〜ん。
「オホッ!ゲホッ!」
「やめてー!」
「何このにおい〜!すごすぎ〜!」
「おえええー!」
 もよおしてきた文左衛門は、煙草を吸ってしのぎながら治兵衛に命じた。
「伽羅はどうした?こちらも負けずに焚けよっ!」
「伽羅は尽きました」
「何だと!」
「あったとしても、この猛烈なにおいに勝てる伽羅はございませんて。うえっぷ!」
 文左衛門は煙管
(きせる)を投げつけると、においを払いまくって暴れまくって怒りまくった。
「クサッ!クサクサクサッ!こんな臭いところにいられるかっ!もう帰るっ!退散ーーーっ!!」

[2011年11月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ この物語とは逆に、雪見をしていたのは茂左衛門、邪魔をしたのは文左衛門としている史料の方が多いようです。

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