1.死んだ

ホーム>バックナンバー2023>令和五年6月号(通算260号)転生味 田中広虫女1.死んだ

市川猿之助
1 死んだ
2.蘇った

「おばさん、おばさん」
「……」
「奥さん、奥さん」
「……」
「チッ! ガン無視かよ」
「……」
「ちょっと、そこのきれいなお姉さん」
「なあに?」
「単純〜」
「何ですか? 不倫ならお断りですけど」
「フハハ! 八人も子供がいる母親に、下心なんか抱きませんて〜」
「なんだ。知ってたんですか。ちょっと残念〜」
「知ってますとも。田中真人広虫女
(たなかのまひとひろむしめ)さん」
「全名前で呼ばれたのは初めてだわ」
「そんでもってあんたのダンナは小屋県主宮手
(おやのあがたぬしみやて)
「あーら。それも御存知なのね」
「位は外従六位上。職は美貴郡
(みきぐん。香川県三木町)の大領(だいりょう・かみ。郡司長官。郡長)。この辺では並ぶものない大金持ち」
「あんた何者なんですか? ひょっとして、京から遣わされた役人? あたしゃ何も悪いことはしてないわよ」
「役人ちゃあ役人ですが、朝廷の者ではありません」
「じゃあ、どこの者よ?」
「あの世です」
「え?」
「地獄ですよ」
「はあ?」
「こー見えてオレ、閻魔大王なんだよ〜」
「えんまさま!? ウッソー! こんなに軽そうな男が〜!? ありえなーい!!」
「その証拠に、これまでおまえがしてきた悪いことを全部知っているぞ」
「まさか〜」
「欲が深いおまえは、寺の私物を横領しまくっているにも関わらず、これまで一度も寄付や施しをしたことがない」
「まあねー」
「おまえは酒屋を経営しているが、酒に水を混ぜて大もうけしている」
「……」
「また、金融業も経営しているが、小さな升で貸し付けたのに大きな升で返済させた上、不当に高い利息までぶんどって多くの人たちを困らせている」
「……」
「これら三つの罪はあまりに重いため、取り調べるまでもなくおまえの死後の地獄行きが決定した。おまえが死ぬのは宝亀七年(776)七月二十日だ」
「!」
「ただしその後、一度息を吹き返し、この世で少し罪を償ってから改めて死ぬ。わかったら一度目に死んだ時は火葬しないように家族に伝えておけ。体がないと蘇れないからな」
「……」

 田中広虫女は目覚めた。
(何だ夢か。――そうよね、現実じゃないよね〜。閻魔なんて実際にいるわけないしー)
 が、宝亀七年六月一日に広虫女は発病し、日増しに体調が悪化してくると不安が増してきた。
(まさか、あれって正夢!? これが死の床ってやつ〜?)
 七月二十日、覚悟した広虫女は、夫の小屋宮手と八人の子を枕元に呼び寄せて遺言した。
「あたしは今日、死にます」
 宮手と子たちは泣いた。
「縁起でもないこと言うなよ〜」
「死なないで〜」
 広虫女は赤の他人からすれば悪人だったが、宮手や子たちにとっては良き妻であり良き母であった。
「閻魔さまが今日から地獄行きだって言ったんだから間違いありません」
「閻魔なんていないだろ! 地獄なんて存在しないだろ! 仏教を信じないおまえらしくもない!」
「存在しないならそれに越したことはありません。万が一、存在した時のことを言っているんです。でも、一回死んだあたしはすぐに生まれ変わるそうなので、死んでもしばらく火葬しないでください」
「生まれ変わる? 何のために?」
「少しでも現世で罪を償うためだそうです」
「意味わかんねーな」
 その日、広虫女は本当に死んだ。享年不明。

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