2.加佐の歓喜 | ||||||||||||||
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それから八年の歳月が流れた。
天皇も孝徳天皇に代わった白雉元年(650)八月下旬のことであった。
おとんは用事があって丹波国加佐郡(かさのこおり。奈良時代以降は丹後国加佐郡。京都府舞鶴市と福知山市・宮津市の一部)の民家に泊まった。
おとんの職業は不明だが、何か出張でもあったのであろう。
ちょうど難波長柄豊碕宮が造営中のため、難波へ役(えだち・えたち。労役)に行ってきた帰りに泊まったのかもしれない。
翌朝、おとんは民家の主人に聞いた。
「顔を洗いたいんですが、井戸とかはないんですか?」
「うちにはないんですよ〜」
民家の主人が申し訳なさそうに言った。
「ですから毎朝この娘に離れた所にある井戸まで汲みに行かせているんです」
主人が指したのは、八歳ぐらいの婢(ひ。女奴隷)であった。
主人が婢に命令した。
「お客様が水を御所望だ。今朝はいつもより余分に汲んできておくれ」
「はい」
婢はうなずいたが、おとんが申し訳なくなって言った。
「いえ、私はちょっと足とかも洗いたいので、井戸まで直接行って洗ってきます」
「そうですか。じゃ、お前。このお客様を井戸まで案内してあげなさい」
「はい」
おとんは婢の後について井戸へ向かった。
「井戸までは遠いのかい?」
「近いよ」
婢は答えたが、だいぶ長いこと山道を歩かされた。
おとんは息が切れてきた。
「はあ、はあ、井戸まではまだかい?」
「もう少しだよ。あの山越えてすぐだよ」
「がびーん!」
婢はピョンピョン軽快に歩き続けたが、おとんがくたばってペースダウンしたため、間が空いてしまった。
ずるっ!ドシーン!
足を滑らせて転んでしまったおとんは、手を伸ばして婢を呼んだ。
「ちょっと待ってちょっと待ってお嬢さん〜」
婢は振り返ったが、吹き出しただけで起こしてはくれなかった。
「もうすぐそこだから、先に行ってるから」
井戸には村の娘たちも来ていた。
婢がつるべで水を汲むと、いじわる娘がそれを取り上げようとした。
「あら、うちのために汲んでくれたんだね。もらっといてあげるわ」
「違うよ」
「よこしなっ」
「やめて!」
婢がつるべにしがみついて抵抗すると、いじわる娘は婢を突き飛ばし、押さえつけてたたいた。
「こいつ、生意気だ!『ワシの食い残し』のくせに!こうしてやる!」
ボカ!スカ!
「ういーん!」
婢は泣き出した。
そこへおとんが追いついてきて、馬乗りになっていたいじわる娘を引きはがした。
「コラッ!やめなさいって!」
「何をしやがるんだ!覚えていやがれ!」
いじわる娘と仲間たちは捨てぜりふを吐いてずらかっていった。
「大丈夫か?」
「ええ」
おとんは泣き止んだ婢を立ち上がらせた。
「いつもやられてるの?」
「わかる?でも、もう慣れっこだから」
婢はまた泣いた。
おとんは気になることがあった。
「ところで、『ワシの食い残し』って、何?」
「さあ?私もわかんない」
泣きはらした顔で井戸から帰ってきた婢を見て、民家の主人が聞いた。
「どうしたんだ?」
おとんがいきさつを説明してあげた。
「そうでしたか」
民家の主人は納得した。
おとんは気になったことを聞いてみた。
「いじめっ子がこの子に『ワシの食い残し』って言ってたんですが」
「そうですか」
そのまま民家の主人が黙ってしまったため、おとんはもう一度聞いた。
「どういうことでしょうか?」
「お客様には関係ない話です」
「いえ、ひょっとしたら関係あるかもしれないんで、『ワシの食い残し』の理由を教えて下さい」
「物好きな方ですね。どうしても聞きたいと?」
「ええ」
民家の主人は婢に命令した。
「お前、ちょっとアカシ(薪。たきぎ)を採ってきなさい」
「はい」
婢が出て行くと、民家の主人が小声で語り始めた。
「ここだけの話ですが、あの娘はこの家の娘じゃないんです」
「と、言いますと?」
「あれは私がハトを捕ろうと山で木に登っていた時のことでした。偶然、ワシの巣を見つけましてね」
「はあ」
「その巣にワシが飛んできて、人間の赤ちゃんを落としていったんです」
「え!」
「赤ちゃんが激しく泣いたため、ひな鳥は怖がって赤ちゃんをついばみませんでした。そこで私が赤ちゃんを助け出して家で育てることにしたんです」
「では、あの娘が……、あの娘が……」
「ええ、あの娘が『ワシの食い残し』です」
「『姫たん』だったのか!」
「はい?」
「あれは私の娘なんですよ!八年前にワシにさらわれた、私の娘の姫たんなんですよ!」
「何ですって!?」
おとんは号泣した。
「うわーん!姫たんが生きてた!こんなところに、あんなに大きくなって生きてた!おんおーん!」
民家の主人は聞いた。
「ちなみにあなたの娘さんがさらわれたのは、何年何月何日ですか?」
「皇極天皇二年(643)の三月×日ですが」
民家の主人が何度もうなずいて言った。
「そうでしたか、そうでしたか、合ってます。合ってますよ、その年月日で。そして、あなたの喜びよう。あなたのおっしゃっていることは真実でしょう」
「姫たーん!」
「よかった!本当に良かった!こんな奇跡があるなんて、よかったよかった!うん、うん!」
民家の主人ももらい泣きした。
そこへ婢が薪を背負って帰ってきた。
そして、抱き合って号泣しているオヤジどもを見て引いた。
「な、なにしてるんですかぁ〜?見ちゃいけないものですかぁ〜?」
「おお!ちょうどいいところに来た!」
「姫たんもこっちに来て、一緒に抱き合って泣くのだ!」
「!?!?」
こうして、姫たんはおとんに連れられて八年ぶりに七美へ帰っていった。
その後、姫たんが幸せになったかどうかまでは伝わっていない。
[2015年4月末日執筆]
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