35.揉事味 基礎用語集

安達泰盛(あだちやすもり)
 (1231-1285) 武将。評定衆(在職1256-1285)・引付頭人。上野・肥後守護。1247宝治(ほうじ)合戦で祖父・景盛(かげもり)、父・義景(よしかげ)とともに三浦泰村(やすむら)・光村(みつむら)兄弟を滅ぼし、1256評定衆(ひょうじょうしゅう)に就任、引付頭人なども兼ね、執権長時(ながとき)・政村(まさむら)・時宗(ときむね)を補佐、1284時宗没後は弘安徳政(こうあんとくせい)を断行するが、内管領(ないかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)と対立、1285霜月騒動(しもつきそうどう)で敗れて自殺した。
揉事味

犬追物(いぬおうもの)
 騎射の練習法の一つ。流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)とともに騎射三物の一。馬場に放した犬を馬上から弓で射た。犬を害さないように矢は蟇目(ひきめ)を使用することもあった。

永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)
 鎌倉時代の法令。日本最初の徳政令。1297北条貞時(ほうじょうさだとき)が発令。質入・売却した土地を御家人に無償返還させ、貸し借りに関する訴訟を受理しないことにした。

外戚(がいせき)
 母方の親族のこと。蘇我(そが)・藤原(ふじわら)氏・平(たいら・へい)氏は天皇家の、北条(ほうじょう)氏は源(みなもと・げん)氏の、安達(あだち)氏は北条氏の、日野(ひの)氏は足利(あしかが)氏の外戚として権力を握った。

笠懸(かさがけ)
 騎射の練習法の一つ。流鏑馬(やぶさめ)・犬追物(いぬおうもの)とともに騎射三物の一。元は笠を的にし、弓で射たもの。後に円板に牛革を張り、わらを詰めて的を作り、それを馬上から弓で射るようになった。

借上(かしあげ・かりあげ)
 鎌倉〜室町初期の高利貸業者。名主・や富裕な僧などが営業を開始した。室町中期以降は土倉(どそう)が取って代わった。

金沢文庫(かねざわぶんこ・かねさわぶんこ・かなざわぶんこ)
 鎌倉時代の図書館。北条(金沢)実時(ほうじょう・かなざわさねとき)が陸奥国の金沢(神奈川県横浜市)に設立。子の顕時(あきとき)、孫の貞顕(さだあき)が継承したが、1333鎌倉幕府滅亡で散逸、現在は神奈川県立金沢文庫として再興されている。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝がここを本拠に幕府を開き、政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉公方(かまくらくぼう)が住み、東国支配の中心となった。

鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)
 平安末期〜鎌倉中期に興った仏教宗派。浄土教系(浄土宗・浄土真宗)・禅宗系(臨済宗・曹洞宗)・新宗教系(時宗・法華宗)がある。

宗派
(別名)
開祖(異称)
(生没年)
本山・本拠
(所在地)
著作・教典 思想・教義
浄土宗 法然(源空)
(1133-1212)
知恩院
(京都市東山区)
『選択本願念仏集』 専修念仏
「南無阿弥陀仏」
浄土真宗
(一向宗)
親 鸞
(1173-1262)
本願寺
(京都市下京区)
『教行信証』
『歎異抄』(唯円編)
悪人正機説
臨済宗 明庵栄西
(1141-1215)
建仁寺
(京都市東山区)
『興禅護国論』
『喫茶養生記』
臨済禅・公案
曹洞宗 道 元
(1200-1253)
永平寺
(福井県永平寺町)
『正法眼蔵』
『正法眼蔵随聞記』
只管打坐
時宗 一遍(智真)
(1239-1289)
清浄光寺
(神奈川県藤沢市)
『一遍上人語録』 踊念仏・遊行
法華宗
(日蓮宗)
日 蓮
(1222-1282)
久遠寺
(山梨県身延町)
『立正安国論』
『観心本尊鈔』
題目
「南無妙法蓮華経」

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ組織は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、本家の得宗を中心として代々執権(しっけん)を選出、末期には内管領・長崎氏が専横するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡した。 

為替(かわせ・かわし)
 遠く隔たった者の貸し借りの決済を、米や現金を輸送せずに手形などを用いて行う仕組み。鎌倉時代に起こり、江戸時代に発展した。

桓武平氏(かんむへいし)≦平氏・平家(へいけ)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)・伊勢(いせ)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。⇒桓武平氏系図

久遠寺(くおんじ)
 山梨県身延町所在。法華宗(ほっけしゅう。日蓮宗)総本山。1274日蓮(にちれん)が波木井実長(はぎいさねなが。南部実長)の援助で草庵を建てたのが始まり。室町時代に日朝(にっちょう)が伽藍を造営した。

公暁(くぎょう)
 (1200-1219) 僧。鶴岡八幡宮別当(つるがおかはたまんぐうべっとう)。源頼家(みなもとのよりいえ)の子。1219叔父・源実朝を父の敵と信じ、鶴岡八幡宮で殺害するが、北条義時(ほうじょうよしとき)の意を受けた三浦義村(みうらよしむら)によって殺された。将軍味

元寇(げんこう)=蒙古襲来(もうこしゅうらい)
 文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(えき)のこと。

高野山(こうやさん)
  和歌山県高野町にある標高千メートル内外の山地。真言宗(しんごんしゅう)総本山・金剛峰寺(こんごうぶじ)がある。

御家人(ごけにん)
 鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。

侍所(さむらいどころ・さぶらいどころ)
 鎌倉幕府の軍政官庁。御家人を統率と軍事・警察を担当。1180源頼朝が設置。長官は別当(初代は和田義盛)。次官は所司(初代は梶原景時)。後に別当は北条氏が、所司は得宗(とくそう)家被官が世襲した。

執権(しっけん)
 鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当(さむらいどころべっとう)と政所(まんどころ)別当を合わせた官。北条(ほうじょう)氏が世襲した。もとは院政における院司の長官のこと。初代執権は北条時政(ほうじょうときまさ)。最後の執権は北条守時(ほうじょうもりとき。赤橋守時)。

執権政治(しっけんせいじ)
  鎌倉時代のうち、執権及び評定衆(ひょうじょうしゅう)が実権を握っていた政治体制。鎌倉初期は将軍独裁体制だったが、1225尼将軍・北条政子(ほうじょうまさこ)没後、三代執権北条泰時(やすとき)が評定衆を設置し、執権主導の政治体制を確立、将軍を蚊帳(かや)の外に置いた。以後、四代経時(つねとき)・五代時頼(ときより)、六代長時(ながとき)・七代政村(まさむら)・八代時宗(ときむね)を経て、九代貞時(さだとき)の1285霜月騒動(しもつきそうどう)以後、得宗専制政治に移行した(すでに五代時頼のころから移行していたという説もある)。

霜月騒動(しもつきそうどう)
 1285九代執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)の外舅(または外祖父)で、評定衆(ひょうじょうしゅう)も務めた実力者・安達泰盛(あだちやすもり)が、内管領(ないかんれい・うちのかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)に討伐され、滅ぼされた事件。この事件は執権政治から得宗(とくそう)専制政治への転換点とされ、以後、内管領の権力はより強化された。揉事味

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、近現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

真言宗(しんごんしゅう)
 仏教の流派。空海(くうかい)が唐から将来して開宗。天台宗(てんだいしゅう)の台密(たいみつ)に対して東密(とうみつ)と呼ばれる。京都の東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)の金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に発展し、三十六流に分かれた。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。将軍味

清和源氏(せいわげんじ)
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)氏なども清和源氏を称している。

禅宗(ぜんしゅう)
 仏教の一派。坐禅(ざぜん。座禅)を行って悟りを目指すもの。日本には鎌倉時代に宋(そう)から栄西(えいさい)が臨済禅(りんざいぜん)を、道元(どうげん)が曹洞禅(そうとう)を将来、江戸時代に明から隠元(いんげん)が来日し、黄檗宗(おうばくしゅう)を開いた。

平 頼綱(たいらのよりつな)=平禅門(ぜんもん)
 (?-1293) 武将。内管領・侍所所司。平盛綱(もりつな)の子? 1285霜月騒動(しもつきそうどう)で御家人代表・安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼして権勢を誇るが、1293次男・飯沼資宗(いいぬますけむね)を将軍に擁立しようとしていると長男・平宗綱(むねつな)に密告され、執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)に滅ぼされた(平頼綱の乱・平禅門の乱)。
揉事味

天台宗(てんだいしゅう)
 仏教の宗派。隋(ずい)の智(ちぎ)を祖とし、法華経を基とする。日本には805最澄(さいちょう)が将来し、桓武(かんむ)天皇によって国家公認の宗派となった。十世紀末に山門派(さんもんは。延暦寺)と寺門派(じもんは。園城寺)に分裂した。

問丸(といまる)=問(とい)
 鎌倉時代の輸送業者。港や都市に住み、物資の輸送や保管や中継取引などを行った。室町時代には倉庫業を兼ねた問屋(といや)に発展した。

徳政令(とくせいれい)
 鎌倉〜室町時代の法令。賃貸や売買契約を破棄するよう命じた法令。幕府が御家人を救済したり、一揆を鎮圧したりするために発令した。最初のものは1297永仁の徳政令。類似の法令は奈良時代からあり、江戸時代の棄捐令(きえんれい)もこの類。

得宗=徳宗(とくそう)
 北条(ほうじょう)氏本家の家督のこと。北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)・泰時(やすとき)・時氏(ときうじ)・経時(つねとき)・時頼(ときより)・時宗(ときむね)・貞時(さだとき)・高時(たかとき)の九代。時政と時氏を除いて七代とも。

得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)
 鎌倉時代のうち、得宗及び内管領(ないかんれい)が実権を握っていた時代。鎌倉中期は執権及び評定衆(ひょうじょうしゅう)を中心とする執権政治だったが、1285霜月騒動(しもつきそうどう)で評定衆・安達泰盛(あだちやすもり)が内管領・平頼綱(たいらのよりつな)に滅ぼされて以降、内管領の力が増し、得宗及び内管領の専制体制政治が確立、評定衆及び得宗でない執権は無力化し、以後、1333幕府滅亡までこの体制が続いた。

内管領(ないかんれい・うちかんれい・うちのかんれい)
 得宗(とくそう)家の執事のこと。御内人(みうちびと。得宗直臣)の代表。鎌倉後期、執権の後見人として権勢を誇った。平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高綱(たかつな。円喜)・高資(たかすけ)父子がその代表。

日蓮(にちれん)
 (1222-1282) 僧。法華(ほっけ。日蓮)宗の開祖。鎌倉・比叡山(ひえいざん)などで修行し、1253法華宗を開宗、1260北条時頼(ほうじようときより)に『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を提出して元寇(げんこう)を警告し、他宗を徹底的に批判、幾多の法難を乗り越え、『観心本尊鈔(かんしんほんぞんしょう)』『開目鈔(かいもくしょう)』などを執筆、1274身延山(みのぶさん。久遠寺)に入山した。 揉事味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

念仏(ねんぶつ)
 仏の名を口にすること。浄土宗(じょうどしゅう)や浄土真宗(じょうどしんしゅう)で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えること。

比叡山(ひえいざん)=叡山(えいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

引付衆(ひきつけしゅう)
 鎌倉・室町幕府の官職。裁判官。長は引付頭人(ひきつけとうにん)。1249北条時頼(ほうじょうときより)が裁判を迅速化するために設置。

評定衆(ひょうじょうしゅう)
 鎌倉幕府の執政官。室町幕府の役職。重要政務や司法を担当。1225北条泰時が設置し、中原師員(なかはらもろかず)・三浦義村(みうらよしむら)ら十一名を任命したことに始まる。執権・連署とともに評定に参加し、執権政治の合議制の中心を担ったが、1285霜月騒動以後の得宗専制政治への転換によって無力化した。室町幕府のものは形式的なもの。江戸幕府には最高司法機関として評定所があった。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

藤原氏(ふじわらし)
 特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。

藤原頼経(ふじわらのよりつね)=九条(くじょう)頼経
 (1218-1256) 公卿。鎌倉幕府四代将軍(在職1226-1244)。九条道家(みちいえ)の子。1219源実朝(みなもとのさねとも)横死後、北条氏によって鎌倉へ迎えられ、1226将軍に就任(摂家将軍)、当初は傀儡(かいらい)だったが、成長するにつれ権力を望み始めたため、1244北条経時(つねとき)によって将軍を廃され、1246謀反に関係したとして北条時頼(ときより)によって京都に送還された。

分割相続(ぶんかつそうぞく)
 嫡子のほか、庶子にも財産を分割する武家社会での相続法。所領が細分化し、貧窮武士が増えたため、鎌倉末期には単独相続に移行した。

北条時宗(ほうじょうときむね)
 (1251-1284) 鎌倉幕府八代執権(在職1268-1284)。時頼(ときより)の子。1264執権北条長時(ながとき)が死んだため、連署(れんしょ)に就任(執権は政村)、1268政村と執権を交替し、1272北条(名越)教時(ほうじょう・なごえのりとき)の乱(二月騒動)を平定、1274文永(ぶんえい)の役・1281弘安(こうあん)の役で元軍を退け、宋(そう)から無学祖元(むがくそげん)を招き、1282円覚寺(えんがくじ)を創建した。

北条時頼(ほうじょうときより)
 (1227-1263) 鎌倉幕府五代執権(在職1246-1256)。時氏(ときうじ)の子。1246兄の経時(つねとき)より執権職を譲られ、1246藤原頼経(よりつね)・名越光時(なごえみつとき)らを退け、1247宝治合戦(ほうじがっせん)で三浦泰村(みうらやすむら)を追討、1249引付衆(ひきつけしゅう)を設置し、1252皇族将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)を擁立、執権退任後も実権を握り続けた。

北条政子(ほうじょうまさこ)
 (1157-1225) 尼(あま)将軍。二位尼。源頼朝(みなもとのよりとも)の妻。北条時政(ほうじょうときまさ)の娘。北条義時(よしとき)らの姉。源頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)らの母。頼朝死後、父や弟とともに幕政を主導、1203将軍頼家を廃して比企能員(ひきよしかず)を討ち、実朝を擁立してこれを補佐、1205父を追放し、1219実朝横死後は都から摂家将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を招聘(しょうへい)、1221承久(じょうきゅう)の乱では御家人たちを鼓舞して幕府に勝利をもたらせた。

北条泰時(ほうじょうやすとき)
 (1183-1242) 武将。鎌倉幕府三代執権(在職1224-1242)。義時(よしとき)の子。1221承久(じょうきゅう)の乱で叔父・北条時房(ときふさ)とともに京都へ進軍し、初代六波羅探題(ろくはらたんだい)北方に就任、1224父の死により執権を継ぎ、1225連署(れんしょ。執権補佐)・評定衆(ひょうじょうしゅう。最高議決機関)を設置、1232御成敗式目(ごせいばいしきもく。幕府基本法典。貞永式目とも)を制定した。
栄光味

北条義時(ほうじょうよしとき)
 (1163-1224) 武将。鎌倉幕府二代執権(在職1213-1224)。時政(ときまさ)の子。父とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従軍、1205姉の政子(まさこ)とともに父を追放して政所(まんどころ)別当に就任、1213和田合戦(わだかっせん。和田氏の乱)で和田義盛(よしもり)を滅ぼし、侍所(さむらいどころ)別当を兼ねて執権政治を確立、1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されると、摂家(藤原)将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を迎え、1221承久(じょうきゅう)の乱に勝って後鳥羽(ごとば)上皇・順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇を配流、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、多数の荘園を没収して新補地頭(しんぽじとう)を任命、朝廷監視のため六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。
将軍味 栄光味

御内人(みうちびと)=得宗御内(とくそうみうち)
 得宗家の家臣のこと。得宗被官。将軍が無力化し、得宗の権限が強まるに伴ってその力も増し、平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高資(ながさきたかすけ)らのように内管領に就任して幕政に参与する者もいた。

源実朝(みなもとのさねとも)
 (1192-1219) 鎌倉幕府三代将軍(在職1203-1219)。源頼朝(よりとも)の次男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。将軍を廃された兄・頼家(よりいえ)の後を継いで執権・北条義時(よしとき)らと政治を執り、和歌や蹴鞠に励んで歌集『金塊(きんかい)和歌集』を編集したが、右大臣就任祝いの時、鶴岡八幡宮で兄の子・公暁(くぎょう)に殺害された。
将軍味

源頼家(みなもとのよりいえ)←源万寿(みなもとのまんじゅ)
 (1182-1204) 武将。鎌倉幕府二代将軍(在職1202-1203)。頼朝(よりとも)の子。実朝(さねとも)の兄。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。父の死後に家督を継いで将軍となったが、北条時政(ときまさ)など有力御家人に実権を奪われ(十三人の合議制)、1203巻き返しをはかるも失敗、妻の父・比企能員(ひきよしかず)と息子・一幡(いちまん)は殺され、自身も失脚して伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され(比企能員の乱)、1204時政に殺されたという。
栄光味

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。義朝(よしとも)の子。範頼(のりより)・義経(よしつね)らの兄。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦いで大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦いで平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

宗尊親王(むねたかしんのう)=中書王(ちゅうしょおう)
 (1242-1274) 皇族・歌人。鎌倉幕府六代将軍(在職1252-1266)。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。1252鎌倉に下り、皇族として初めて将軍に就任するが、1166謀反の疑いで追放された。家集『瓊玉(けいぎょく)和歌集』など。

流鏑馬(やぶさめ)
 騎射の練習法の一つ。笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)とともに騎射三物の一。狩装束を着て馬を走らせ、馬上から三つの的を次々と弓で射ていくもの。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)などの神事で伝わっている。

律宗(りっしゅう)=戒律宗(かいりつしゅう)
 仏教の宗派。南都六宗(なんとろくしゅう)の一。本山は唐招提寺(とうしょうだいじ。奈良県奈良市)。戒律を守り、実行することを教義とする。唐僧・鑑真(がんじん)を祖とし、奈良時代に栄えたが、平安時代に衰退、鎌倉時代に叡尊(えいそん。思円)・忍性(にんしょう。良観)らが再興した。

立正安国論(りっしょうあんこくろん)
 鎌倉時代の仏教書。日蓮(にちれん)が前執権・北条時頼(ほうじょうときより)に提出した建白書。一巻。法華経を信じなければ内乱勃発と他国侵略を招くと警告。

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