105.攘夷味 基礎用語集

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アヘン戦争(あへんせんそう)=阿片戦争・鴉片戦争
 (1840-1842) アヘン密輸問題から起こったイギリスと清(中国)の戦争。1839広州(こうしゅう)で在庫アヘンを大量に処分した清に怒ったイギリスが1840遠征軍を派遣、香港(ホンコン)など中国沿岸各地を攻略し、南京(ナンキン)に迫ったため清は降伏、南京条約を調印し、香港を割譲、広州・福州(ふくしゅう)・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海(シャンハイ)を開港、多額の賠償金を支払った。

アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

安政の五か国条約=安政仮条約(あんせいのかりじょうやく)
 1858日本が欧米五か国(米・蘭・露・英・仏)に強制的に結ばされた修好通商条約。箱館(はこだて。後の函館)・兵庫・神奈川・長崎・新潟開港などを定めた。不平等条約で、日本には関税自主権がなく、五か国に領事裁判権や片務的最恵国待遇を認めた。

安政の大獄(あんせいのたいごく)
 (1858-1859) 大老・井伊直弼(いいなおすけ)が行った政治弾圧。安政の五か国条約調印に反発した尊王攘夷派や将軍継嗣問題に反発した一橋派に対して行われた。吉田松陰(よしだしょういん)・橋本左内(はしもとさない)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)が刑死し、梅田雲浜(うめだうんぴん)らが獄死、月照(げっしょう)は逃亡して自殺したほか、徳川斉昭(とくがわなりあき)・松平慶永(まつだいらよしなが。春嶽)・中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう。青蓮院宮尊融入道親王)・鷹司政通(たかつかさまさみち)・三条実万(さんじょうさねつむ)・近衛忠煕(このえただひろ)・一条忠香(いちじょうただか)らが処罰された。

安藤信正(あんどうのぶまさ)←安藤信行(のぶゆき)←安藤信睦(のぶゆき)
 (1819-1871) 幕閣。老中(在職1860-1862)。陸奥磐城平(福島県いわき市)藩主。信由(のぶより)の子。1848奏者番・1851寺社奉行・1858若年寄を経て、1860老中に就任、桜田門外の変で大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺された後は老中・久世広周(くぜひろちか)とともに幕政を担い、将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)と和宮(孝明天皇の妹)の結婚など公武合体を推進するが、尊攘(そんじょう)派の志士に襲われて負傷失脚(坂下門外の変)、戊辰戦争では奥羽悦列藩同盟に参加し、新政府軍と戦って敗退した。

井伊直弼(いいなおすけ)≦井伊掃部頭(かもんのかみ)
 (1815-1860) 大老(在職1858-1860)。近江彦根(ひこね)藩主。1857-1858将軍継嗣問題では、南紀派(なんきは)として徳川慶福(とくがわよしとみ。家茂)を推し、徳川斉昭(なりあき)・松平慶永(まつだいらよしなが。春岳)ら一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。徳川慶喜)を推す一橋派と対立、1858大老に就任し、勅許を得ずに日米修好通商条約を調印、神奈川(のち横浜)・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂の開市(かいし。商売)を許可、自由貿易を承認し、領事裁判権・協定関税などを規定、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ぶ(安政の五か国条約)が反発多々、1858-1859安政の大獄で吉田松陰(よしだしょういん)・橋本左内(はしもとさない)らを処刑し、斉昭・慶永・近衛忠煕(このえただひろ)・梅田雲浜(うめだうんびん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らを弾圧するが、1860桜田門外の変で水戸浪士らに暗殺された。

イギリス(Inglez)=英国(えいこく)=グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国
 ヨーロッパにある国。紀元前七世紀頃にケルト人が先住民を駆逐し、五世紀頃からアングロサクソン人がイングランドを制圧、グレートブリテン島ほかを領有し、1588スペインの無敵艦隊を撃破、1600東インド会社を設立し、世界へ植民地を拡大、十八世紀にいち早く産業革命を成し、十九世紀には大英帝国として全盛期を誇った。現在の首都はロンドン。

伊藤博文(いとうひろぶみ)←伊藤俊輔(しゅんすけ)
 (1841-1909) 武士・政治家。首相(在職1885-1888,1892-1896,1898,1900-1901)・元老。長門萩(長州)藩士。1871-1873岩倉遣外使節副使として欧米を視察、参議兼工部卿・内務卿などを経て、1885内閣制度を創設、初代首相になり、大日本帝国憲法(明治憲法)を作成、1887保安条例を定め、1888枢密院(すうみついん)議長に就任、1892再度組閣し、1894条約改正を実現、1894-1895日清戦争を遂行し、1895李鴻章(りこうしょう)と下関(しものせき)条約を調印、台北(タイペイ)に台湾総督府を設置し、1896退陣、1898三度組閣するが、憲政党成立により退陣、1900立憲政友会(りっけんせいゆうかい)を結成して四度組閣し、1901退陣後も元老(げんろう)として君臨、1905統監府(とうかんふ)設置されると初代韓国統監に就き、1904第一次・1905第二次・1907第三次日韓協約を重ね韓国併合を目指すが、1909韓国独立運動家・安重根(アンジュングン・あんじゅうこん)に射殺された。
攘夷味

井上馨(いのうえかおる)←志道聞多(しじぶんた・もんた)
 (1835-1915) 武士・外交官・政治家。外相・元老。長門萩藩士。造幣頭・大蔵大輔などを歴任し、1876日朝修好条規を調印、参議工部卿を経て、外務卿のち外相として1885漢城条約を締結、条約改正に努め、欧化政策を採ったが、1887外人法官任用問題などで辞任、農商相・内相などを務め、立憲政友会結成にも関与した。
攘夷味

江戸(えど)
 現在の東京都都心。江戸時代の政治の中心地(首都)。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城により発展、江戸時代中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

江戸城(えどじょう)→皇居
 東京都千代田区(ちよだく)所在。平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)が居館を造営し、1457太田道灌(おおたどうかん)が築城、後北条氏の支城となり、1590徳川家康(とくがわいえやす)が改築、1603以降は将軍在所となり、1868に明治天皇が入城して皇居となった。天守閣(てんしゅかく)は明暦(めいれき)の大火で炎上後は再建されなかった。

オランダ(Holland)
 ヨーロッパにある国。十六世紀後半独立を宣言し、海外へ進出したが、その後もたびたび他国に併合された。1600蘭船リーフデ号が豊後に漂着して日本と交易を始め、1609平戸に商館を設立、1641商館を出島に移転し、鎖国後も欧州で唯一交易を続けた。商館長をカピタンといい、幕府に海外情報報告書(オランダ風説書)を提出した。現在の首都はアムステルダム。

開国≒開国和親(かいこくわしん)
 外国との交流を認め、仲良くしようとする思想。

和宮(かずのみや)=親子内親王(ちかこないしんのう)→静寛院宮(せいかんいんのみや)
 (1846-1877) 皇族。仁孝(にんこう)天皇皇女。孝明(こうめい)天皇の妹。1851有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)と婚約するが、1862公武合体のため将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚、1866夫が没して剃髪(ていはつ)し、戊辰戦争では朝廷に幕府の存続を嘆願、維新後は京都のち東京に住んだ。

奇兵隊(きへいたい)
 (1863-1869) 1863高杉晋作が下関(しものせき)の豪商・白石正一郎(しらいししょういちろう)の援助を得て組織した軍隊。初代総管は高杉。隊員数は四〜五百人ほど。隊員の三割は庶民で、第二次長州戦争・戊辰(ぼしん)戦争で活躍した。1869解散。

公武合体(こうぶがったい)
 幕末に朝廷(公)と幕府(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化を目指そうとした思想。老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)、長州藩士・長井雅楽(ながいうた)、薩摩藩国父・島津久光(しまづひさみつ)らが提唱したが、結局、倒幕派に圧倒された。

神戸(こうべ)≧兵庫(ひょうご)
 現在の兵庫県神戸市。県庁所在地・政令指定都市。起源は奈良時代に行基(ぎょうき)が開き、平安時代末期に平清盛(たいらのきよもり)が拡張した摂津大輪田泊(おおわだのとまり)。中世に日宋・日明貿易で発展し、1858安政の五か国条約によって開港が約束され、1867開港、日本有数の貿易港に発展し、阪神工業地帯の中核となった。

最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)
 条約締結国に対し、その他の国に与えている最も良い待遇を与えること。双務的に定める場合は問題ないが、片務的の場合は不平等条約。1854日米和親条約を初めとする幕末〜明治時代初期に日本が欧米と結んだ条約はすべて片務的最恵国待遇条項が定められていた。

坂下門外(さかしたもんがい)の変
 1862和宮(かずのみや)降嫁に激怒した憤慨した水戸藩志士らが江戸城坂下門外で登城中の老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)を襲撃した事件。計画を立てた宇都宮藩儒・大橋訥庵(おおはしとつあん)は事前に逮捕され、襲撃者は全員討死にするが、信正も負傷して失脚した。

薩摩藩(さつまはん)鹿児島藩(かごしまはん)
 江戸時代に九州南端にあった藩。外様。藩主は島津(しまづ)氏。石高は六十一万石→七十三万石(内高八十七万石)。1609島津家久(いえひさ)が幕府の許可を得て琉球(りゅうきゅう)を併合するが、1753宝暦治水事件・1808近思録崩れ(きんしろくくずれ)などで財政は窮乏、調所広郷(ずしょひろさと)の天保改革で再建し、島津斉彬(なりあきら)は洋式軍政・藩営事業を推進、幕政にも加わり、島津久光(しまづひさみつ)は雄藩連合を構想、1862英国人に対して生麦事件を起こすが、1863薩英戦争で報復されて攘夷を断念、西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)らが活躍し、1866長州藩と連携(薩長連合)、1868-1869戊辰戦争で旧幕府軍を破り、明治政府の中心勢力になった。

参議院(さんぎいん)=参院(さんいん)
 (1890- )日本国憲法のもと、衆議院とともに国会を構成する両院の一つ。議員定数は二百四十二人(当初は二百五十二人)。任期は六年で、三年ごとに半数改選。解散はない。

三条実美(さんじょうさねとみ)
 (1837-1891) 政治家。公卿。1862国事御用掛(こくじごようがかり)となり、尊攘(そんじょう)運動を推進、1863八月十八日の政変で失脚して長州に下るも(七卿落ち)、1867議定(ぎじょう)・1871太政大臣に就任、1873征韓論争に苦しみ、1885内閣制度創設によって内大臣に転じ、1889一時首相を兼ねた。

四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)=四国連合艦隊下関砲撃事件=下関戦争(しものせきせんそう)=馬関戦争(ばかんせんそう)
 1863長州藩外国船砲撃事件に怒ったイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が報復のため長州藩と戦い、下関砲台を占領した事件。列強の圧倒的武力に屈した長州藩は賠償金三百万ドルを払わされることになり、攘夷を断念して開国するしかなくなってしまった。

志士(しし)
 身の犠牲もいとわず国や社会のために尽くそうという志を持った人。

島津久光(しまづひさみつ)
 (1817-1887) 大名。斉興(なりおき)の子。斉彬(なりあきら)の弟。薩摩鹿児島藩主・島津忠義(ただよし。茂久)の父として幕政の実権を握り、公武合体を提唱、1862藩兵を率いて上京し、尊攘過激派の有馬新七(ありましんしち)らを粛清(寺田屋事件)、幕政改革の勅命を受けて江戸に下り、文久の改革を推進、帰りに生麦事件を起こして1863薩英戦争を招き、開国に転じて八月十八日の政変で尊攘派の長州藩を京都から一掃、徳川慶喜と意見が合わず、後事を西郷隆盛(さいごうたかもり)に託して帰国し、維新後は廃藩置県に反対、1874左大臣になるが、1876帰国して引退した。

自由民主党(じゆうみんしゅとう)=自民党(じみんとう)
 (1955- )自由党と民主党の保守合同によって成立した政党。初代総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)。結党以来一貫して政権を保持したが、1993に分裂して初めて野党に転落するが、1994政権奪還、2009民主党ほか連合に政権を明け渡すが、2012三度政権に返り咲いた。

攘夷(じょうい)≒攘夷論
 外国勢力を排斥しようとする思想。

松下村塾(しょうかそんじゅく)
 幕末に長門萩郊外にあった私塾。1842玉木文之進(たまきぶんのしん)が開き、1854おいの吉田松陰(よしだしょういん)が主宰した。高杉晋作(たかすぎしんさく)・久坂玄瑞(くさかげんずい)・前原一誠(まえはらいっせい)・伊藤博文(いとうひろぶみ)・山県有朋(やまがたありとも)・山田顕義(やまだあきよし)・品川弥二郎(しながわやじろう)・野村靖(のむらやすし)らを輩出したことで知られる。

消費税(しょうひぜい)
 物品・サービスの消費に課される税。中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣が売上税導入に失敗した後、1988竹下登(たけしたのぼる)内閣が税率を三パーセントとして創設し、1989施行、1997税率が五パーセントに上げられた。

清(しん)
 (1616-1912) 近世〜近代の中国の王朝。1616太祖ヌルハチが女真族を統一して後金(ごきん)を興し、二代太宗ホンタイジが国号を清と改称、三代世祖順治帝が北京を攻略して首都となし、中国を統一したが、1840アヘン戦争を機に諸外国に侵食され、1894-1895日清戦争で日本に敗北、1911辛亥(しんがい)革命が起こり、1912宣統帝溥儀(ふぎ)の退位によって滅びた。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は世襲となり、幕府を開いた。将軍味

尊王攘夷=尊皇攘夷(そんのうじょうい・そんおうじょうい)=尊攘(そんじょう)
 天皇を崇拝し、列強を排斥しようとする思想。

大老(たいろう)
 江戸幕府の最高職。臨時職。定員一名。1638三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が土井利勝(どいとしかつ)と酒井忠勝(さかいただかつ)を任じたのに始まり(井伊直孝が最初とも)、幕末までにほか七名が就任したが(数には諸説あり)、実権を振るったのは酒井忠清(さかいただきよ)・堀田正俊(ほったまさとし)・井伊直弼(いいなおすけ)ぐらいであった。

高杉晋作(たかすぎしんさく)
 (1839-1867) 武士。長門萩(長州)藩士。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)や江戸の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ。昌平黌)などで学び、藩校・明倫館(めいりんかん)館長に就任、1862上海(シャンハイ)へ渡海した後、久坂玄瑞(くさかげんずい)らと品川御殿山(しながわごてんやま)のイギリス公使館を焼き打ち、1863長州藩外国船砲撃事件を機に豪商・白石正一郎(しらいししょういちろう)の後援で奇兵隊を結成、 1864四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争・馬関戦争・四国連合艦隊下関砲撃事件)で講和にあたるが、藩の保守派(俗論派)と対立して脱藩、1865伊藤博文ら(いとうひろぶみ)らと奇兵隊を率いて下関(しものせき)で挙兵し(功山寺の決起)、保守派を倒して藩政を掌握、1865-1866第二次長州戦争では豊前小倉(こくら)で奮戦するが、病没した。攘夷味

中国(ちゅうごく)=中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)←中華民国(ちゅうかみんこく)
 (1912-) 東アジアにある国。1912孫文(そんぶん)が臨時大統領になって中華民国が成立、袁世凱(えんせいがい)が専制支配を確立し、1928蒋介石(しょうかいせき)が国内を統一するが、1937-1945日中戦争で衰退、1949中華人民共和国が成立した。現在の首都は北京。

長州藩(ちょうしゅうはん)萩藩(はぎはん)
 江戸時代に本州西端にあった藩。外様。藩主は毛利(もうり)氏。石高は三十七万石(内高七十一万石)。1831防長大一揆を機に村田清風(むらたせいふう)が藩政改革を行い、吉田松陰(よしだしょういん)・高杉晋作(たかすぎしんさく)・木戸孝允(きどたかよし)・大村益次郎(おおむらますじろう)らを輩出、1863朝命を受けて攘夷を決行(外国船砲撃事件)するが、1864四国連合艦隊に下関を砲撃されて転向、第一次長州征討で幕府に屈服するが、1865第二次長州征討では撃退、1866薩摩藩と結び(薩長連合)、1868-1869戊辰戦争で旧幕府軍を撃破、明治政府の中心勢力になった。

土佐藩(とさはん)=高知藩(こうちはん)
 江戸時代に四国南部にあった藩。外様。石高は約二十万石。藩主は山内(やまうち・やまのうち)氏。600関ヶ原の戦いで敗れた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)に代わり、1601山内一豊(かずとよ)が浦戸へ入封、1603河中(こうち。後の高知)へ移り、以後幕末まで十六代続いた。十五代藩主豊信(とよしげ。容堂)は吉田東洋を登用して藩政改革を行い、幕政にも参与して大政奉還を実現した。

長崎(ながさき)
 現在の長崎県長崎市。県庁所在地。1571大村純忠(おおむらすみただ)がポルトガルとの貿易のために開港し、1580イエズス会に寄進、九州平定後、豊臣秀吉が没収して直轄都市とし、江戸幕府も長崎奉行を設置して統治、鎖国時代は唯一の貿易港として、開国後は重工業都市として発展したが、1945アメリカにより原爆が投下された。

新潟(にいがた)
 現在の新潟県新潟市。県庁所在地。647渟足柵(ぬたりのさく)が置かれ、江戸時代には西廻航路の寄港地として発展、1843新潟奉行が設置され、1858日米修好通商条約により1868開港した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

箱館(はこだて)→函館
 現在の北海道函館市。渡島支庁所在地。渡島半島南端の港町。松前(福山)・江差とともに松前三湊の一。江戸幕府が直轄領として箱館奉行を置き、1854日米和親条約により1855開港、1868五稜郭の戦(箱館戦争)の舞台になり、1869函館と改称、北海道の玄関として発展した。

ハリス(Townsend Harris)
 (1804-1878) アメリカの外交官・商人。中国や東南アジアで貿易を行い、1854清の寧波(ニンポー)領事に就任、1855初代駐日米総領事となり、1856伊豆下田(しもだ)に着任、1857下田条約を結び、将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)に大統領の親書を提出、アロー戦争(第二次アヘン戦争)で清に勝った英仏の脅威を説き、1858日米修好通商条約調印に成功、1859初代駐日米公使となり、江戸麻布(あざぶ)善福寺(ぜんぷくじ)に公使館を設置、日米外交の基礎を築き、1862帰国した。

富国強兵(ふこくきょうへい)
 国を富ませ、兵力を強化すること。明治政府の基本政策の一。

不平等条約(ふびょうどうじょうやく)
 強国が弱小国に対して強制的に結ばせた対等ではない条約。日本は1858日米修好通商条約など安政の五か国条約で、欧米列強に対する領事裁判権(治外法権)を認め、関税自主権を喪失した。

香港(ホンコン)
 中国広東省南部にあった元イギリスの植民地。香港島と九竜半島からなる。香港島は1842にアヘン戦争の勝利で、九竜半島は1860にアロー戦争(第二次アヘン戦争)の勝利で獲得するが、1997中国に返還された。

水戸藩(みとはん)
 江戸時代に関東地方東端にあった藩。御三家の一。藩主は徳川(とくがわ)氏。石高は二十五万石(後に三十五万石)。1602佐竹氏転封後、徳川家康の五男・信吉が、次いで十男・頼将(頼宣)が入封、1609十一男・頼房が入封してからは幕末まで十一代続いた。二代藩主・光圀(みつくに)が『大日本史』を編修して尊王論が起こり、九代藩主・斉昭(なりあき)は幕末の尊王攘夷運動の旗頭になった。

民主党(みんしゅとう)
 @(1947-1950) 1947日本進歩党と日本自由党の一部、国民協同党の一部などで結成。総裁は芦田均(あしだひとし)。1949分裂し、1950連立派が民主自由党と合同して自由党を、野党派が国民協同党と合同して国民民主党を結成した。
 A(1996-) 1996鳩山由紀夫(はとやまゆきお)と菅直人(かんなおと)が結成し、1997新進党分裂で野党第一党となり、2003自由党を吸収、2009自民党に代わって政権を担った。

横浜(よこはま)
 現在の神奈川県横浜市。県庁所在地・政令指定都市。近世までは漁村。1858日米修好通商条約により、1859東海道沿いの神奈川を避けて開港。生糸の輸出など幕末貿易の八割を占め、維新後も文明開化の窓口として繁栄、日本一の国際貿易都市・日本第二の大都市に発展し、京浜工業地帯の中核となった。

吉田松陰(よしだしょういん)
 (1830-1859) 武士・思想家・教育者。長門萩(長州)藩士。江戸で佐久間象山(さくましょうざん)に師事し、一人の君主に万民が従うという一君万民論を提唱、1854ペリー来航の際に密航を企てたが失敗し、叔父・玉木文之進(たまきぶんのしん)が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰、高杉晋作(たかすぎしんさく)・久坂玄瑞(くさかげんずい)・前原一誠(まえはらいっせい)・伊藤博文(いとうひろぶみ)らの人材を育てたが、1858-1859安政の大獄で処刑された。

領事裁判権(りょうじさいばんけん)≦治外法権(ちがいほうけん)
 治外法権の一つで、外国人の裁判はその本国の領事が行う権利。治外法権は外国ではその国の裁判権に支配されない権利。日本は1858日米修好通商条約など安政の五か国条約により欧米列強に対してこの権利を認めさせられ、明治政府の条約改正交渉により、1894〜1897外相・陸奥宗光(むつむねみつ)が廃止に成功した。

老中(ろうじゅう)
 江戸幕府の執政官。幕政を統括。定員は四、五名で月番制。二万五千石以上の譜代大名から選抜された。最初の老中(当初は年寄と呼ばれた)は大久保忠隣(おおくぼただちか)と本多正信(ほんだまさのぶ)とされている(酒井忠世らとも)。

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