2.文室宮田麻呂の変

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祇園祭など中止
1.しわぶき禍
2.文室宮田麻呂の変

 左近衛少将兼阿波守・藤原良相が、大納言藤原良房邸を訪れた。
「今日は密告者を連れてきました」
 良相は良房の弟である。
「密告者?」
 良房は首を傾げた。
「――恒貞親王
(つねさだしんのう)の件(承和の変。「安保味」参照)は、終わったはずだが」
「張宝高
(ちょうほうこう。張保皐)の情報があるそうです」
「張宝高……!」
 良房の顔色が変わった。
 張宝高とは、日本新羅近海の交易を独占していた海賊王である。
 新羅出身だが、に渡って武人になり、帰国後は海賊退治で名を馳せ、清海鎮大使という地方官に任じられた。
 また、新羅第四十五代国王・神武王を擁立したり、その後継者・文聖王に娘を嫁がせようとするなど朝鮮政界でも絶大な権力を持っていた。
「その張宝高が、恒貞の件の黒幕だったとでもいうのか?」
「はい。密告者はそう申しております」
「なるほど。ヤツは海賊王だ。新羅でしでかすようなことを日本でも企まないとは限らない。仮にそうだったとしても、張宝高は新羅で反乱を起こして刺客に暗殺されたと伝え聞いているが」
「死亡説もありますが、生存説もあります。異国のことなのでどちらなのか確かめようがありません」
「どちらにせよ、日本で反乱が起こることはあるまい。昨年の政変で恒貞は廃し、北家の愛発
(あらち。「北家系図」参照)や式家の吉野(よしの。「式家系図」参照)伴健岑橘逸勢橘逸勢、文室秋津(あきつ)ら危険分子は一斉逮捕し、六十数名を島流しにしてしまったからな」
「もう一人、逮捕し忘れているヤツがいるそうです」
「誰だそれは?」
「前筑前守・文室宮田麻呂――」
「なるほど。前筑前守なら、ちょくちょく大宰府(福岡県太宰府市)に来ていた張宝高とも関係が深かったかもしれないな」
 宮田麻呂は承和の変で左遷された秋津の弟ともされている
(「文室氏系図」参照)
「密告者は陽侯氏雄
――。無位無官ですが、宮田麻呂の従者で、張宝高とも顔見知りだそうです。会われますか?」
「その前に一つ聞こう。その者、まさか風邪気味ではあるまいな?」
「ええ、咳
(せき)もしていませんし、熱もないようですが」
「それなら安心だ。連れてこい」
 念のため、御簾
(みす)を下ろして社会的距離(ソーシャルディスタンス)

「前筑前守文室宮田麻呂の従者、無位無官の陽侯氏雄、ただ今参上いたしました」
「手短に聞こう。張宝高の情報とは何か?」
「はい。張から宮田麻呂に定期的に貢物が贈られてくるのです」
新羅との交易は禁止し、貢物は官が没収しているはずだが」
「九州までは朝廷の目は届きません。大宰府の役人は宮田麻呂の息がかかったものばかりです。張からの貢物のほとんどは宮田麻呂の懐に入っていると思われます」
「張からはどんな物が送られてくるのだ?」
新羅の貴重な骨董品や金銀財宝などです」
「ほう」
「張は新羅王室を牛耳っている実力者です。新羅由来のお宝を手に入れるのはお手のものです」
「だろうな」
「おかげて京内と難波
(なにわ。大阪市)にある宮田麻呂の邸宅はお宝で満ちあふれ、まるで新羅王室の宮殿内のようになっていました」
「ほうほう!」
「宮田麻呂の房には、様々の国の酒瓶が並び、異国風の美女を何人も侍らせております」
「酒池肉林だな」
「そうそう。貢物の中には、新羅で使われている最新兵器や武具や馬具などもありました。あんなにもため込んで、一体何をしでかすつもりですかねえ〜?」
「反乱であろう。新羅を乗っ取ろうとした張宝高と組み、この国を乗っ取ろうとしていたのであろう。これはまがうことなき謀反である! 謀反人の財物はことごとく没収し、逮捕しなければならない!」
「ですよね〜」
「陽侯とやら、よくぞ密告したくれた!」
「当然のことをしたまでです〜」
「ほうびに大初位下に叙し、筑前権少目に任じてやろう」
「やったー!」
「その代わり、忖度
(そんたく)しろよ」
「もちろんですとも! これからは張からの貢物は大納言さまに差し上げればよろしいのですね?」
「そうではない。お上に納税するのだ」
「ですよね〜、どうも失礼いたしました」
「そうすれば、どういうわけだかわしの懐に行き着く」
「!」
「世の中、不思議なものだの〜う」
「まことです〜」

 承和十年(843)十二月二十二日、陽侯氏雄の密告により、文室宮田麻呂は謀反の疑いで逮捕され、左衛門府に拘禁された。
「私は謀反など企んでいない!」
 宮田麻呂は無実を訴えたが、同日、左中弁・良岑木蓮
(よしみねのいたび。「良岑氏系図」参照)、右中弁・伴成益(とものなります。「伴氏系図」参照)、少納言・清滝河根(きよたきのかわね)、左兵衛大尉・藤原直道(なおみち)らが京内と難波にある宮田麻呂の邸宅を徹底捜索し、膨大な金銀財宝の中から少量の武器を発見した。
「謀反の証拠が出ましたけど」
「そんなもん、使おうと思って持っていたわけじゃない! 趣味で集めていただけだ!」
 十二月二十九日、宮田麻呂は謀反の罪で伊豆へ流刑になり、次男の文室忠基
(ただもと)佐渡へ、三男の文室安恒(やすつね))は土佐に流された。
 これ以後、宮田麻呂の記録はないため、まもなく配所で没したと思われる。
 また、宮田麻呂が近江にも持っていた別邸十区や土地十五町、水田三十五町も没収されたが、後に貞観寺
(じょうがんじ。京都市伏見区)に寄進されている。

 貞観四年(862)から五年(863)にかけては、さらにひどい咳逆病の大流行があった。
 人々はうわさし合った。
「おかしい。何かおかしい」
「こんなにも災禍が続くのは、誰かが怒っているからではないのか?」
「冤罪だったのに疑いを晴らせないまま死んじまった人々のたたりではないか?」
 すでにこの時には外孫・清和天皇を担いで太政大臣に昇り詰めていた良房には大いに心当たりがあったため、神泉苑にて御霊会を開催してみたのであった。

[2020年7月末日執筆]
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※ 弊作品の根幹史料は『続日本後紀』です。

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