3.地獄を見た女 | ||||||||||||||
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天明三年(1783)七月八日朝、悪い女は浅間山が激怒している夢を見ていた。
どっかーん!
どーん!どーん!
ごごごごごごご〜りき〜。
めりめりめりめりめりけんさっく!
いや、それは夢ではなかった。
起きて外を見ると、現実の浅間山も真っ赤になり、稲光を伴った大噴煙を上げ、大量の溶岩を噴き流していたのである。
しかも溶岩の激流は、こちらに向かって流れてくるようであった。
どろどろどろどろ、だびだびーん!
「大変!」
悪い女はいつもの習慣でむんずと五寸クギをつかむと、ダッと自宅を飛び出した。
で、二股男の玄関の戸をたたきまくったのである。
どん!どん!どん!
「早く逃げて!いつもよりも山が燃えてるの!『鼻血』まで出してるのよっ!山の神様がお怒りなのよっ!何をしてるの!怒ってるって言ってるだろーがあー!」
二股男は訳が分からなかったが、浅間山がただごとではないってことは容易に理解できた。
「でも、でもっ、逃げるってどこへ〜?」
「高いとこよ、高いとこ!高台の観音堂へ!早くっ!」
悪い女は鎌原観音堂へ向けて走った。
二股男もついて走った。
二股男は当然、良い女も連れて走ってきた。
悪い女は良い女が来るのはおもしろくなかったが、今はそれどころではなかった。
ずずずずーん!どろどろ!
ばりばり!さいきょー!
浅間山の火砕流と溶岩流は土石流を呼び、鎌原村に襲来した。
高台の鎌原観音堂に逃れた悪い女と二股男と良い女は、すんでのところで土石流の直撃を免れたが、ダチの若者たちは運がなく、「火の水」にさらわれてしまった。
「あれー!」
「助けてー!」
悪い女は通りすがりの土石流の中に、ダチたちの姿を見た。
「あああ……、じいさんの言うことを聞いておけばよかった〜」
姿を見たのは一瞬だけであった。
彼らは悲しみと思い出だけを残して地の果てへと消えていった。
悪い女は泣いた。自分で元気づけようとした。
「でも、ここにいる人たちはもう安心だねっ」
観音堂には百人近くの村人たちが逃れてきていた。
「まだ安心できないよ。新たに山が崩れるかもしれないし、火の水が満ちてくるかしれない」
「ところで、あんたの母さんは?」
「そういえば」
二股男は母親を捜した。
良い女はおろおろした。
「義母さんとは一緒に逃げてきたはずだけど……」
下を見ると、石段をゆっくりゆっくり上ってくる老婦人があった。
それが二股男の母親であった。
それを追うようにひとひたと泥流も迫ってきていた。
「母さん!何をしているんだ!泥流が来てるぞっ!」
「速く上ってきてー!」
誰が見ても、二股男の母の足よりも、泥流が上ってくる勢いの方が速かった。
「ダメだ!このままでは飲み込まれる!」
二股男は頭を抱えた。
良い女はあきらめなかった。
ズデデデと石段を駆け下りると、姑を背負って上ろうとした。
「助かった……」
二股男が思ったその時であった。
だぱーん!
二人の姿は突如勢いを増した泥流の下に消えてしまったのである。
「そんな……」
二股男は茫然(ぼうぜん)とした。
「ああ……」
悪い女もショックであった。
が、悪い女はすぐにあることに気付いたのである。
(良い女は死に、あたいと二股男だけが生き残った……)
それは、悪い女が願っていたことであった。
毎晩毎晩「丑の時参り」をしてまで、ずっとずっと念願していたことであった。
悪い女はいつか古老が言っていたことを思い出した。
『神様は信じたほうがええ〜。お山の神様はおぬしのような信心深い者の願いは必ずかなえてくださるのじゃ』
(良い女は死んだのよ!これで二股男はあたいのもとに帰ってくるのよ!)
悪い女はジワジワ喜びを感じた。
悪い女は満面の笑みで二股男を見つめてしまった。
場違いなその笑顔に、二股男が気付くことはなかった。
二股男にはもう、悪い女の顔など見えなくなっていた。
「うわああああー!」
突然、二股男は荒れ狂う泥流めがけて駆け下りていった。
「何すんのー!?」
どっぶーん!どぶどぶどぶどぶくぶくぶく〜。
それが、悪い女が見た二股男の最後の姿であった。