178.狂気味 基礎用語集

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外戚(がいせき)
 母方の親族のこと。蘇我(そが)・藤原(ふじわら)氏・平(たいら・へい)氏は天皇家の、北条(ほうじょう)氏は源(みなもと・げん)氏の、安達(あだち)氏は北条氏の、日野(ひの)氏は足利(あしかが)氏の外戚として権力を握った。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

皇后(こうごう)←大后(たいこう・たいごう・おおきさき)
 天皇の正妻。大王の正妻は大后。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)に称号が定着し、大后は皇太后の略称となる。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。皇孫の場合は皇太孫、弟が皇太子の場合は皇太弟とも呼んだ。七世紀頃に成立?

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

摂関家(せっかんけ)
 代々天皇の外戚となって摂政・関白を世襲した家柄。藤原北家の嫡流。良房(よしふさ)・基経(もとつね)に興り、道長(みちなが)・頼通(よりみち)の代で確立、院政期に三家(近衛・松殿・九条)に、鎌倉時代初期に五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に分裂した。

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)
 律令制における太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)であるが、奈良時代に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が任ぜられた太師(たいし。大師)や、道鏡(どうきょう)が任じられた太政大臣禅師もこれに相当する役職。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。もとはヤマト政権の大王。七世紀から天皇に移行。初代天皇(大王)は神武(じんむ)天皇?今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。1869から事実上の首都は東京。

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
 (929-990)公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原師輔(もろすけ)の子。972長兄・伊尹(これただ・これまさ)没後、次兄・兼通(かねみち)と関白を争って敗れるが、977兼通没後に986花山(かざん)天皇を退位させ(寛和の変)、一条天皇の外祖父として摂政に就任、989太政大臣に、990関白となった。『蜻蛉(かけろう)日記』の作者・藤原道綱母(みちつなのはは)は妻の一人。狂気味 安倍味5

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう。良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出し、四家中最も繁栄した。

源高明(みなもとのたかあきら)
 (914-982) 公卿。醍醐天皇の子。920源性を賜って臣籍降下し、966右大臣、967左大臣に昇るが、969安和の変で女婿・為平親王を皇位に就けようとしたとして大宰権帥に左遷され、972許されて帰京、有職故実書『西宮記』を著した。

村上天皇(むらかみてんのう)←成明親王(なりあきらしんのう)
 (926-967) 伝六十二代天皇(在位946-967)。醍醐(だいご)天皇皇子。母は藤原基経(もとつね)の娘・穏子(おんし)944兄・朱雀(すざく)天皇の皇太子となり、946譲位を受けて即位、949藤原忠平(ただひら)死後は関白を置かず、951『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』編集させ、957菅原文時(すがわらふみとき)の意見封事三箇条を入れ、958乾元大宝(けんげんたいほう)を鋳造、960天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)を主催するなど天皇親政を行い、後世に天暦(てんりゃく)の治と呼ばれた。

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