27.温泉味 基礎用語集
  

大輪田泊(おおわだのとまり)
 現神戸港。五泊(いつのとまり)の一。瀬戸内海の要衝の湊で、『行基年譜(ぎょうきねんぷ)』や三善清行(みよしきよゆき・きよつら)意見封事十二箇条に行基の造営とある。平安末期に平清盛(たいらのきよもり)が拡張し、鎌倉時代以降は兵庫津(ひょうごのつ)として、明治時代以降は神戸港として繁栄した。

鑑真(がんじん)
 (688?-763) 僧。日本律宗の開祖。唐(とう)出身。742栄叡(ようえい・えいえい)・普照(ふしょう)らの要請で日本渡海を決意、五度失敗して失明するが、753六度目の渡海で来日、754聖武上皇(しょうむじょうこう)・光明皇太后(こうみょうこうたいごう)らに授戒し、755東大寺戒壇院(とうだいじかいだんいん)を設立、大僧都(だいそうず)に任じられ、759唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建した。唐招提寺の鑑真和上像は現存日本最古の肖像彫刻。

行基(ぎょうき)
 (668-749) 僧。道昭(どうしょう)に師事し、法相宗を学習、諸国をめぐって民衆を教化し、各地に寺・池・堤・橋などを建設するなど社会事業に従事、東大寺大仏造営の勧進を任され、大僧正に任ぜられるが、大仏完成前に没した。
温泉味

恭仁京(くにきょう)・恭仁宮(くにのみや)
 奈良時代の一時期の首都。京域は京都盆地南部(京都府加茂町ほか)。740聖武(しょうむ)天皇が平城京から遷都するか、743紫香楽宮(しがらきのみや)造営によって工事は中断、744難波宮(なにわのみや)に遷都された。

玄ム(げんぼう)
 (?-746) 法相宗の僧。僧正。717-735唐に留学、737僧正に就き、皇太夫人・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を治癒、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となって国分寺建立・大仏造営に深く関与するが、藤原仲麻呂(なかまろ)に圧迫されて大宰府の観世音寺(かんぜおんじ)に左遷、配所にて怪死した。
 暴発味2

光明皇后(こうみょうこうごう)・藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)
 (701-760)聖武(しょうむ)天皇皇后。藤原不比等(ふひと)の三女。729長屋王(ながやおう)の変後に臣下で初めて皇后となり、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置、749聖武天皇没後、遺品を正倉院(しょうそういん。正倉院宝物の始まり)に納め、皇后宮職(こうごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)に改組、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)をその長官とした。

今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)
 平安時代の説話集。三十一巻(三巻散在)。現存千四十話。編集者は不明だが、源隆国(みなもとのたかくに)とも伝えられている。大正時代の文豪・芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)が考証し、『鼻』『芋粥(いもがゆ)』などを著した。

紫香楽宮(しがらきのみや)
 奈良時代の一時期の首都。現在の滋賀県信楽(しがらき)町。742聖武(しょうむ)天皇が離宮を造営してちょくちょく訪れ、743この地で大仏造立を発願、744難波から元正(げんしょう)上皇を迎えて実質的な首都になるが、745平城京へ還都した。 

聖武天皇(しょうむてんのう)
 (701-756)首(おびと)皇子とも。第四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の第一皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。姉・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷した。
 暴発味

大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)=大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)
 752東大寺の大仏を開眼供養した祭典。聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇、皇太夫人・橘古那可智、左大臣・橘諸兄ら諸王諸臣百官数千人や僧一万人が参列し、開眼師を菩提僊那(ぼだいせんな)が、華厳経講師を隆尊(りゅうそん)が、読師を延福(えんふく)が、呪願師を道センが、都講を景静(けいせい)が務めた。法要で使われたものが正倉院宝物に多く伝わる。印度味

大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)
 743聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃなぶつ)造立を思い付き、恭仁京(くにきょう)で発した詔。初め大仏は近江紫香楽宮(しがらきのみや)付近の甲賀寺(こうがでら)で造られたが、745平城京還都後に東大寺(とうだいじ)に移った。

大宰府(だざいふ)=遠の朝廷(とおのみかど)
 九州に置かれた古代の地方特別官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった朝廷の出張所。長官は大宰師(だざいのそち)。663白村江(はくそんこう)の戦後に設置され、九世紀以降は貿易も行って活性化したが、1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。
暴発味 令和味

橘 諸兄(たちばなのもろえ)
 (684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、右大臣から左大臣に昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われる。

田中角栄(たなかかくえい)
 (1918-1993)政治家。首相(在職1972-1974)。1943田中土建工業を設立し、1947衆院議員に当選、郵政相・蔵相・通産相などを歴任し、1972首相・自民党総裁に就任、1972日中共同声明を発表して日中国交正常化)して日中復交を実現、列島改造論を唱えたが、1973石油危機が到来、1974金脈問題で辞任し、1976ロッキード事件で逮捕された。

唐招提寺(とうしょうだいじ)
 奈良市所在。律宗総本山。都十五大寺の一。759鑑真が朝廷から賜った新田部(にいたべ)親王邸跡に建立。^平安時代以降衰退するが、鎌倉時代に貞慶(じょうけい)・覚盛(かくじょう)が再興した。

東大寺(とうだいじ)・金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)・総国分寺(そうこくぶんじ)・大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗総本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。

長屋王(ながやおう)
 (676?-729)皇族・公卿。左大臣。高市皇子の子。藤原不比等死後、政界首班として722良田百万町歩の開墾を計画、723三世一身法を施行したが、729藤原四兄弟によって自殺に追い込まれた。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)
 (1162-1241) 歌人。公卿。京極中納言。俊成(しゅんぜい・としなり)の子。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に認められ、1205藤原家隆(いえたか・かりゅう)らとともに勅撰和歌集『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集するが謹慎処分を受け、1221承久(じょうきゅう)の乱後の1235後堀河(ごほりかわ)天皇の命令で『新勅撰和歌集』を編集、小倉百人一首を選び、歌集『拾遺愚草(しゅういぐそう)』・歌論『近代秀歌』・日記『明月記(めいげつき)』などを残した。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)・恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って近江で兵を挙げ、敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
 日朝味6

藤原不比等(ふじわらのふひと)
 (659-720)公卿。右大臣。藤原鎌足(かまたり)の子。701刑部(おさかべ)親王とともに大宝律令(たいほうりつりょう)を完成させ、718養老(ようろう)律令も編集、710平城京(へいじょうきょう)遷都や721『日本書紀(にほんしょき)』編集にも関与した。

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦いで大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦いで平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

盧舎那仏(るしゃなぶつ)=毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)≧東大寺大仏(とうだいじだいぶつ)
 蓮華蔵(れんげぞう)世界に住み、全宇宙を照らす仏。東大寺の盧舎那仏像は743聖武(しょうむ)天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)で造立を発願し、行基(ぎょうき)を勧進に任命するが一時中断、747平城京で再開し、造仏長官・国中公麻呂(くになかのきみまろ)らが造立、752菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼師に任じて開眼法要を行った。1180平清盛(たいらのきよもり)の命を受けた平重衡(しげひら)に、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、足や台座などは創建当初のもの。
印度味

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