139.挑発味 基礎用語集 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2013>基礎用語集
●吾妻鏡=東鑑(あずまかがみ)
鎌倉時代の正史。編者不明。52巻?。編年体。1180源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵から1266宗尊(むねたか)親王送還までを記した歴史書。金沢文庫(かねざわぶんこ)に伝わる鎌倉時代の記録を基に十四世紀初めに成立したと思われる。
●アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。
●鎌倉時代(かまくらじだい)
(1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置や1192頼朝の将軍就任などによって始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権や得宗(とくそう)として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。
●鎌倉幕府(かまくらばくふ)
(1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所を・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ幕府は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、末期には内管領・長崎氏が専横、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡し、幕府は解体した。
●鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)
平安末期〜鎌倉中期に興った仏教宗派。浄土教系(浄土宗・浄土真宗)・禅宗系(臨済宗・曹洞宗)・新宗教系(時宗・法華宗)がある。
宗派 (別名) |
開祖(異称) (生没年) |
本山・本拠 (所在地) |
著作・教典 | 思想・教義 |
浄土宗 | 法然(源空) (1133-1212) |
知恩院 (京都市東山区) |
『選択本願念仏集』 | 専修念仏 「南無阿弥陀仏」 |
浄土真宗 (一向宗) |
親 鸞 (1173-1262) |
本願寺 (京都市下京区) |
『教行信証』 『歎異抄』(唯円編) |
悪人正機説 |
臨済宗 | 明庵栄西 (1141-1215) |
建仁寺 (京都市東山区) |
『興禅護国論』 『喫茶養生記』 |
臨済禅・公案 |
曹洞宗 | 道 元 (1200-1253) |
永平寺 (福井県永平寺町) |
『正法眼蔵』 『正法眼蔵随聞記』 |
只管打坐 |
時宗 | 一遍(智真) (1239-1289) |
清浄光寺 (神奈川県藤沢市) |
『一遍上人語録』 | 踊念仏・遊行 |
法華宗 (日蓮宗) |
日 蓮 (1222-1282) |
久遠寺 (山梨県身延町) |
『立正安国論』 『観心本尊鈔』 |
題目 「南無妙法蓮華経」 |
●韓国(かんこく)=大韓民国(だいかんみんこく)←大韓帝国(だいかんていこく)
(1897-1910,1948-) アジアの朝鮮半島南部にある国。李氏朝鮮王朝二十六代・高宗(こうそう)が国号を大韓帝国と改めるが、1910韓国併合条約によって日本の植民地になり(日韓併合)、1945-1948アメリカの占領を経て、1948大韓民国として独立した。首都はソウル。
●関白(かんぱく)
天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。
●桓武平氏(かんむへいし)≦平氏・平家(へいけ)
平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)・伊勢(いせ)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。⇒桓武平氏系図
●軍記物(ぐんきもの)=軍記物語
中世に発達した戦乱を題材とした物語。後世には語り物として庶民の間にも流行した。940『将門記』が最初で、『陸奥話記』『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などが有名。
●御家人(ごけにん)
鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。
●侍所(さむらいどころ・さぶらいどころ)
鎌倉・室町幕府の軍事組織。鎌倉幕府のものは1180源頼朝が設置し、軍事・裁判を担当。現代の防衛省に相当。長官は別当(初代は和田義盛)、次官は所司(初代は梶原景時)。後に別当は北条氏が、所司は得宗(とくそう)家被官が世襲した。室町幕府のものは京都の警察や裁判を担当。現代の警視庁(地理的には京都府警)のようなもの。長官は所司(しょし。頭人とも)。管領に次ぐ重職で、山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極(きょうごく)・土岐(とき)氏から選ばれた。
●九条兼実(くじょうかねざね)=藤原兼実(ふじわらのかねざね)
(1149-1207)
九条家の祖。公卿。摂政・関白・太政大臣・従一位。藤原忠通(ただみち)の子。史論『愚管抄(ぐかんしょう)』を著した慈円(じえん)の兄。源頼朝(みなもとのよりとも)に接近して権勢を誇るが、後に不和になり、源通親(みちちか)らと対立して失脚した。日記『玉葉(ぎょくよう)』。
●慈円(じえん)=慈鎮(じちん)
(1155-1225) 天台宗僧。藤原忠通の子。九条兼実の弟。明雲に師事し、1192天台座主となり、兄の死後はその孫・道家を後見、後鳥羽上皇の挙兵を批判して史書『愚管抄』を著し、家集『拾玉集』や、『新古今和歌集』に多くの歌を残した。
●四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。八省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、寮は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。
●征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための朝廷の軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が就任して幕府を開いてからは世襲となった。
●朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)=北朝鮮(きたちょうせん)
(1948-) 東アジアの朝鮮半島北部にある社会主義国。1945日本降伏後ソ連が占領、金日成(キムイルソン・きんにっせい)らが臨時人民委員会を組織し、1948韓国に対抗して独立した。首都は平壌(ピョンヤン・へいじょう)。
●日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。
●栄西(えいさい・ようさい)=明庵栄西(みょうあんえいさい)
(1141-1215) 僧。日本臨済宗(りんざいしゅう)の開祖。初め比叡山(ひえいざん)で天台教学を学び、入宋して臨在禅(りんざいぜん)を将来、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著して禅宗を広め、鎌倉に寿福寺(じゅふくじ)を、京都に建仁寺(けんにんじ)を創建、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著して茶の飲み方を広めた。
●琵琶法師(びわほうし)
諸国を放浪し、琵琶を弾きながら『平家物語』などを語った盲目の芸能者。平安時代の蝉丸(せみまる)、鎌倉時代の生仏(しょうぶつ)、南北朝時代の明石覚一(あかしかくいち)などが有名。
●武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
武芸をおさめて軍事にたずさわった者。
●平家物語(へいけものがたり・へいげものがたり)
軍記物語の一。鎌倉時代成立。『徒然草』によると後鳥羽上皇代に信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が執筆。
平家一門の興亡を描き、琵琶法師(びわほうし)生仏(しょうぶつ)らによって語り広められた。
●北条氏(ほうじょうし)
@鎌倉(かまくら)北条氏。古代〜中世の武家。氏祖は北条時方(ときかた)。その子・時政(ときまさ)が源頼朝(みなもとのよりとも)の舅(しゅうと)として初代執権となり、代々世襲して繁栄するが、1333元弘の乱で敗れて滅亡した。
A小田原(おだわら)北条氏。後北条氏とも。中世の武家。氏祖は北条早雲(そううん。伊勢長氏)。今川家の内紛で独立し、伊豆・相模を平定、小田原を本拠とし、五代に渡って関東に覇をなしたが、1590豊臣秀吉によって滅ぼされた。⇒北条氏・後北条氏系図
●北条政子(ほうじょうまさこ)
(1157-1225) 尼(あま)将軍。二位尼。源頼朝(みなもとのよりとも)の妻。北条時政(ほうじょうときまさ)の娘。北条義時(よしとき)らの姉。源頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)らの母。頼朝死後、父や弟とともに幕政を主導、1203将軍頼家を廃して比企能員(ひきよしかず)を討ち、実朝を擁立してこれを補佐、1205父を追放し、1219実朝横死後は都から摂家将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を招聘(しょうへい)、1221承久(じょうきゅう)の乱では御家人たちを鼓舞して幕府に勝利をもたらせた。
●北条義時(ほうじょうよしとき)
(1163-1224) 武将。鎌倉幕府二代執権(在職1213-1224)。時政(ときまさ)の子。父とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従軍、1205姉の政子(まさこ)とともに父を追放して政所(まんどころ)別当に就任、1213和田合戦(わだかっせん。和田氏の乱)で和田義盛(よしもり)を滅ぼし、侍所(さむらいどころ)別当を兼ねて執権政治を確立、1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されると、摂家(藤原)将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を迎え、1221承久(じょうきゅう)の乱に勝って後鳥羽(ごとば)上皇・順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇を配流、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、多数の荘園を没収して新補地頭(しんぽじとう)を任命、朝廷監視のため六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。
●政所(まんどころ)
公卿の家政機関または幕府の政務機関。四位以下の公家の家政機関は公文所(くもんじょ)という。1190源頼朝(みなもとのよりとも)が権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう)任官を機に公文所を政所と改称した。初代別当は大江広元(おおえのひろもと)。1203北条時政(ほうじょうときまさ)が別当になってからは執権(しっけん)と呼ぶのが普通で、北条氏が世襲した。また、次官の執事は主に二階堂(にかいどう)から任じられた。室町幕府の政所は財政事務を担当、長官は執事で伊勢(いせ)氏が世襲、執事の代官である政所代は蜷川(にながわ)氏が世襲した。
●源実朝(みなもとのさねとも)
(1192-1219) 鎌倉幕府三代将軍(在職1203-1219)。源頼朝(よりとも)の次男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。将軍を廃された兄・頼家(よりいえ)の後を継いで執権・北条義時(よしとき)らと政治を執り、和歌や蹴鞠に励んで歌集『金塊(きんかい)和歌集』を編集したが、右大臣就任祝いの時、鶴岡八幡宮で兄の子・公暁(くぎょう)に殺害された。
●源頼朝(みなもとのよりとも)
(1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)らと戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦で大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじかわ)の戦で平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。
●問注所(もんちゅうじょ)
鎌倉幕府の司法官庁。室町幕府の文書保存官庁。1184源頼朝が設置。司法を担当。1249引付衆設置後は御家人の裁判は管轄外。長官は執事(初代は三善康信)。
●郎党=郎等(ろうとう・ろうどう)
有力者の側近や子分。中世武家社会では、惣領に仕える従者。
●和田義盛(わだよしもり)
(1147-1213) 武将。侍所(さむらいどころ)別当。杉本義宗(すぎもとよしむね)の子。三浦義明(みうらよしあき)の孫。1180同族の三浦義澄(よしずみ)とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従い、初代侍所別当に就任、頼朝(みなもとのよりとも)死後は十三人の合議制に列し、1200梶原景時(かじわらのかげとき)・1203比企能員(ひきよしかず)討伐に参加、幕府内で力を持ったが、政所(まんどころ)別当・北条義時(ほうじょうよしとき)と対立、挑発に乗って和田合戦(和田氏の乱)を起こして敗死した。