4.北条政子も変

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張成沢の変
1.源頼朝は変
2.大江広元が変
3.阿波局も変
4.北条政子も変
5.梶原景時の変

 結城朝光は仲が良かった和田義盛と三浦義村(みうらよしむら)に相談した(「和田氏三浦氏系図」参照)
 義盛と義村の意見は一致していた。
「鎌倉に景時が居続ける限り、これからも讒言の犠牲者は出てくる」
「将軍に訴えて幕閣から景時を排除してもらうしかない」
「しかし景時は将軍から信頼されている」
「二者択一を迫るのだ。景時をクビにしないのなら、我ら御家人一同をクビにしてくださいと」

 正治元年(1199)十月二十八日、義盛と義村は景時を糾弾するため、鶴岡八幡宮(鎌倉市)御家人らを集めた。
 たちまち、千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政・足立遠元・和田常盛・比企能員・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・渋谷高重・山内経俊・宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長・佐々木盛綱・稲毛重成・岡崎義実・土屋義清ほか主だった御家人六十六名が結集した。
 糾弾状は中原仲業
(なかはらなかなり)が作成した。
「ニワトリを養う者はタヌキを飼わず!家畜を飼う者はヤマイヌを育てず!我らと景時に共存共生はありえず!」
 文面を義村は気に入った。
「名言ではないか!」
 御家人一同は全員署名し、義盛と義村が糾弾状を大江広元へ届けた。
 広元はそれをなかなか将軍源頼家に渡さなかったが、後日、義盛らにせかされ、やむなく見せることにした。
 頼家は驚いた。
「景時の言い分も聞くべきだ」
 景時を呼びつけたが、彼は弁解もせず、家族とともに所領の相模一之宮
(神奈川県寒川町)へ去っていった。
 こうして景時は鎌倉追放を申し渡され、鎌倉の館は取り壊されて永福寺に寄進された。

 北条政子に父の北条時政が話しかけた。
「景時も終わりだな」
「私は満足していません」
「何を言っているのだ。御家人たちから総スカンを食らった景時の権勢が復活することはない」
「でも、生きていればあの人を変態に仕立て上げることはできます。そうさせないためには、彼には死んでもらわなければ困るんです」
「何を言っているのだ。ああ見えて景時は悪人ではない。みなは讒言と批判しているが、本当は偽りではなく、事実しか言っていない。それが分かっているからこそ、御家人たちもヤツの死までは望まなかったのだ。鎌倉から排除しただけで満足しているのだ。先代の変態は真実だ。頼朝卿は天性の変態であらせられた!別に変態でもいいではないか。男というものは、大なり小なりみなみな変態なのだ」
「夫をそこらの男と一緒にしないでください!夫は変態ではありませんっ!偉人なのですっっ!」
「ふん、勝手にしろ」
 帰ろうとした時政に、政子が聞いた。
「父上は『馬の骨』になりたいんですか?」
「ウマノホネ?」
「ええ。景時は歴史は事実を伝えるべきだとほざいているんです。つまり、彼からすれば、北条氏桓武平氏などではなく、どこぞの馬の骨になっちゃうんじゃありませんか?」
「!」
「景時は相模一之宮の館で何をしているか御存知ですか?」
「さあ?」
「公文書の訂正をしているんです。我が家の祖先のウソも暴かれ、真実が明かされてしまうのです」
「そ、そっ、それは困る……」

 そこへ北条義時が入ってきて伝えた。
「景時が鎌倉へ戻ってきました」
「何だと?」
「京へ上るため、お別れのあいさつに来たのだと」
「……」
「それにしても景時は、妙に晴れ晴れとした表情をしておりました」
 時政はガタガタ震えた。
「きゃはははははははは!」
 政子は高々と笑った。
「歴史は訂正されたのよっ!鎌倉ではかなわないから、京都でそのことを発表するのよ!我が家は馬の骨に戻るんだわっひひひー!」
「させるもんか!」
 時政義時に命じた。
「景時に追手を差し向けよ!清見関
(きよみがせき。静岡市清水区)で待ち伏せるのだ!」
「ははぁっ!」

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