148.排除味 基礎用語集

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大江広元(おおえのひろもと)
 (1148-1225) 公家・学者・官僚。政所別当。維光(これみつ)の子(または藤原光能の子)。中原広季(なかはらひろすえ)の養子。匡房(まさふさ)の曽孫。源頼朝(みなもとのよりとも)に請われて鎌倉に下り、初代公文所(くもんじょ。後の政所)別当に就任、地頭設置を建議するなど幕閣で重きをなし、頼朝没後は北条時政(ほうじょうときまさ)・義時(よしとき)らとともに十三人の合議制にも列席、1221承久(じょうきゅう)の乱では守戦論を退け、積極出撃策を主張、幕府を勝利に導いた。
排除味 排除味 

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置や1192頼朝の将軍就任などによって始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権や得宗(とくそう)として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所を・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ幕府は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、末期には内管領・長崎氏が専横、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡し、幕府は解体した。 

桓武天皇(かんむてんのう)=柏原帝(かしわばらてい)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味 菅降味 怨霊味 ヤミ味

桓武平氏(かんむへいし)≦平氏・平家(へいけ)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)・伊勢(いせ)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。⇒桓武平氏系図

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

御家人(ごけにん)
 鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。

侍所(さむらいどころ・さぶらいどころ)
 鎌倉・室町幕府の軍事組織。鎌倉幕府のものは1180源頼朝が設置し、軍事・裁判を担当。現代の防衛省に相当。長官は別当(初代は和田義盛)、次官は所司(初代は梶原景時)。後に別当は北条氏が、所司は得宗(とくそう)家被官が世襲した。室町幕府のものは京都の警察や裁判を担当。現代の警視庁(地理的には京都府警)のようなもの。長官は所司(しょし。頭人とも)。管領に次ぐ重職で、山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極(きょうごく)・土岐(とき)氏から選ばれた。

所司(しょし)=侍所所司(さむらいどころ・さぶらいどころしょし)=侍所頭人(とうにん)
 鎌倉幕府の侍所次官。長官の侍所別当を補佐した。室町幕府では侍所長官で管領に次ぐ重職。京都の警察や裁判を担当。現代の警視総監(地理的には京都府警本部長)のようなもの。山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極(きょうごく)・土岐(とき)氏から交替で選ばれた。

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)=源平の争乱(げんぺいのそうらん)
 (1180-1185) 平安時代末期に起こった一連の源氏と平氏の戦い。後白河(ごしらかわ)天皇皇子・以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵に始まり、源頼朝(よりとも)の挙兵、源義仲(よしなか)の征西と続き、源義経らによる一の谷の戦・屋島の戦を経て、壇ノ浦の戦で平氏が滅んで終結した。
ウシ味

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は世襲となり、幕府を開いた。将軍味

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図
諾威味

平 清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。高齢味

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)=北朝鮮(きたちょうせん)
 (1948-) 東アジアの朝鮮半島北部にある社会主義国。1945日本降伏後ソ連が占領、金日成(キムイルソン・きんにっせい)らが臨時人民委員会を組織し、1948韓国に対抗して独立した。首都は平壌(ピョンヤン・へいじょう)。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

平治の乱(へいじのらん)
 1159院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と源氏の当主・源頼朝(みなもとのよしとも)らが院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)や平氏の当主・平清盛(たいらのきよもり)らに対して起こした反乱。信頼・義朝らは清盛の留守中に後白河(ごしらかわ)法皇の三条殿を急襲、信西を討って朝廷の実権を握るが、戻ってきた清盛に六条河原で敗れ、信頼は処刑され、義朝は東国へ落ち延びる途中で殺された。

北条氏(ほうじょうし)
 @鎌倉(かまくら)北条氏。古代〜中世の武家。氏祖は北条時方(ときかた)。その子・時政(ときまさ)が源頼朝(みなもとのよりとも)の舅(しゅうと)として初代執権となり、代々世襲して繁栄するが、1333元弘の乱で敗れて滅亡した。
 A小田原(おだわら)北条氏。後北条氏とも。中世の武家。氏祖は北条早雲(そううん。伊勢長氏)。今川家の内紛で独立し、伊豆・相模を平定、小田原を本拠とし、五代に渡って関東に覇をなしたが、1590豊臣秀吉によって滅ぼされた。⇒北条氏後北条氏系図

北条時政(ほうじょうときまさ)
 (1138-1215) 武将。鎌倉幕府初代執権(在職1203-1205)。伊豆の豪族・時方(ときかた)の子。政子(まさこ)・義時(よしとき)らの父。1180娘婿・源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に参加し、1185平氏滅亡後は京都守護に就任、1189奥州征伐に従い、頼朝が没して頼家(よりいえ)が将軍になると、十三人の合議制に列席、1203比企能員(ひきよしかず)を討ち、頼家(よりいえ)を追放(翌年殺害か)、実朝(さねとも)を将軍にして政所(まんどころ)別当となり、1205畠山重忠(はたけやましげただ)を殺すが、後妻の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしようとしたため、政子・義時らに追放された。
排除味

北条政子(ほうじょうまさこ)
 (1157-1225) 尼(あま)将軍。二位尼。源頼朝(みなもとのよりとも)の妻。北条時政(ほうじょうときまさ)の娘。北条義時(よしとき)らの姉。源頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)らの母。頼朝死後、父や弟とともに幕政を主導、1203将軍頼家を廃して比企能員(ひきよしかず)を討ち、実朝を擁立してこれを補佐、1205父を追放し、1219実朝横死後は都から摂家将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を招聘(しょうへい)、1221承久(じょうきゅう)の乱では御家人たちを鼓舞して幕府に勝利をもたらせた。排除味 栄光味3

北条義時(ほうじょうよしとき)
 (1163-1224) 武将。鎌倉幕府二代執権(在職1213-1224)。時政(ときまさ)の子。父とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従軍、1205姉の政子(まさこ)とともに父を追放して政所(まんどころ)別当に就任、1213和田合戦(わだかっせん。和田氏の乱)で和田義盛(よしもり)を滅ぼし、侍所(さむらいどころ)別当を兼ねて執権政治を確立、1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されると、摂家(藤原)将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を迎え、1221承久(じょうきゅう)の乱に勝って後鳥羽(ごとば)上皇・順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇を配流、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、多数の荘園を没収して新補地頭(しんぽじとう)を任命、朝廷監視のため六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。排除味 将軍味
栄光味 挑発味

政所(まんどころ)
 公卿の家政機関または幕府の政務機関。四位以下の公家の家政機関は公文所(くもんじょ)という。1190源頼朝(みなもとのよりとも)が権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう)任官を機に公文所を政所と改称した。初代別当は大江広元(おおえのひろもと)。1203北条時政(ほうじょうときまさ)が別当になってからは執権(しっけん)と呼ぶのが普通で、北条氏が世襲した。また、次官の執事は主に二階堂(にかいどう)から任じられた。室町幕府の政所は財政事務を担当、長官は執事で伊勢(いせ)氏が世襲、執事の代官である政所代は蜷川(にながわ)氏が世襲した。

源義経(みなもとのよしつね)
 (1159-1189) 武将。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けて育ち、1180兄の挙兵に参加、1184源義仲(よしなか)を滅ぼし、一の谷(いちのたに)の戦・屋島(やしま)の戦・1185壇の浦(だんのうら)の戦で平氏を破って滅ぼしたが、兄・頼朝と不和になり、陸奥平泉(ひらいずみ)で藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に殺された(北海道以北に落ちのびたという説もある)。

源義仲(みなもとのよしなか)=木曽(きそ)義仲
 (1154-1184) 武将。源義賢(よしかた)の子。源頼朝(よりとも)・義経(よしつね)らの従兄弟。父の死後、乳母の夫・中原兼遠(なかはらかねとお)に養育され、1180以仁王(もちひとおう)の令旨に応じて信濃木曽で挙兵、1181北陸道を制圧し、1183倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏を破って上洛、1184後白河法皇(ごしらかわほうおう)から征夷大将軍に任じられるが、源義経・範頼(のりより)兄弟に近江粟津(あわづ)で敗死した。
ウシ味

源頼家(みなもとのよりいえ)
 (1182-1204) 武将。鎌倉幕府二代将軍(在職1202-1203)。頼朝(よりとも)の子。実朝(さねとも)の兄。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。父の死後に家督を継いで将軍となったが、北条時政(ときまさ)など有力御家人に実権を奪われ(十三人の合議制)、1203巻き返しをはかるも失敗、妻の父・比企能員(ひきよしかず)と息子・一幡(いちまん)は殺され、自身も失脚して伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され(比企能員の乱)、1204時政に殺されたという。
栄光味

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)らと戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦で大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじかわ)の戦で平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。
排除味

和田義盛(わだよしもり)
 (1147-1213) 武将。侍所(さむらいどころ)別当。杉本義宗(すぎもとよしむね)の子。三浦義明(みうらよしあき)の孫。1180同族の三浦義澄(よしずみ)とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従い、初代侍所別当に就任、頼朝(みなもとのよりとも)死後は十三人の合議制に列し、1200梶原景時(かじわらのかげとき)・1203比企能員(ひきよしかず)討伐に参加、幕府内で力を持ったが、政所(まんどころ)別当・北条義時(ほうじょうよしとき)と対立、挑発に乗って和田合戦(和田氏の乱)を起こして敗死した。排除味
挑発味

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