◆ 醍醐の花見

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花見 日本桜花史
醍醐の花見

 始めまして、こんにちは。私、石田三成(「石田氏系図」参照)と申します。
 はい、そうです。いわゆる関ヶ原の戦において、徳川家康
(「徳川氏系図」参照)に無謀な戦いを挑んで滅び去った、あの武将のことです。
 もちろん、私はあの戦いを無謀だとは思っていませんでした。頭数だけなら、十分家康に対抗できるだけのものを集めたつもりでした。けれども、心が集まりませんでした。口惜しい限りです。できることなら生まれ変わって、もう一度家康と戦ってみたいものです。
 関ヶ原の戦についてお話したいことは山とありますが、またいつかお話しすることにして
(「変節味」参照)、今回は、太閤(たいこう)秀吉(「豊臣氏系図」参照)の今わの際の御豪遊「醍醐の花見」について、お話ししたいと思います。

豊臣秀吉 PROFILE
【生没年】 1536or1537-1598
【別 名】 猿?・日吉丸?・木下藤吉郎・羽柴秀吉
・藤原秀吉・豊国大明神
【出 身】 尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)
【本 拠】 美濃墨俣城(岐阜県大垣市)→近江長浜城(滋賀県長浜市)
→播磨姫路城(兵庫県姫路市)→摂津大坂城(大阪市中央区)
・京都聚楽第(京都市上京区)・山城伏見城(京都市伏見区)
【職 業】 武将・公卿(政治家)
【役 職】 筑前守→右少将→参議→権大納言→内大臣
→関白・太政大臣→太閤
【位 階】 従五位下→従四位下→正四位下→従三位→正二位→従一位
【 父 】 木下弥右衛門(百姓・足軽?)
【 母 】 なか(大政所・天瑞院)
【義 父】 竹阿弥・近衛前久
【兄 弟】 とも(瑞竜院・日秀)・豊臣秀長・旭姫(朝日姫・南明院)
【義兄弟】 徳川家康・浅野長政・木下家定ら
【 妻 】 浅野おね(ねね・北政所・高台院)・淀殿(淀君・浅井茶々)
・京極竜子(松の丸殿)・三の丸殿(織田信長女)
・前田麻阿(加賀殿。利家女)・三浦ふく(宇喜多直家室。法鮮尼)
古河姫君(月桂院。喜連川頼純女)・蒲生お虎(三条局。賢秀女)
・姫路殿(織田信包女)・甲斐殿(成田氏長女or妹)
・高田お種(香の前・安楽院。次郎右衛門女。鬼庭元綱室)ら
【 子 】 羽柴秀勝?・豊臣鶴松・秀頼ら
【養 子】 羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(三好吉房の子)
・豊臣秀次(吉房の子)・小早川秀秋(秀俊)・宇喜多秀家
結城秀康(徳川家康の子)・智仁親王(八条宮。正親町天皇の孫)
・近衛前子(前久女)・前田豪姫(利家女)・浅井お江与(崇源院)ら
【主 君】 松下之綱・織田信長・織田秀信・正親町天皇・後陽成天皇
【 師 】 細川幽斎(歌)・千利休(茶)ら
【部 下】 竹中重治・黒田孝高・石田三成・浅野長政・前田玄以
増田長盛・長束正家・加藤清正・福島正則・蜂須賀正勝
・前田利家・蒲生氏郷・小西行長・小早川隆景・上杉景勝ら
【仇 敵】 毛利輝元・明智光秀・柴田勝家・長宗我部元親・徳川家康
・織田信雄・佐々成政・島津義久・北条氏政・宣祖・万暦帝ら
【墓 地】 豊国廟(京都市東山区)・方広寺豊太閤塔(東山区)
【霊 地】 高台寺(京都市東山区)
・豊国神社(東山区・大阪市中央区・滋賀県長浜市・岐阜県大垣市)

 醍醐の花見が開催されたのは、慶長三年(1598)三月十五日のことです。
 当時、秀吉様は大変不機嫌でした。朝鮮出兵
(文禄・慶長の役。「日朝味」参照)が思うようにいかなかったからです。そこで秀吉様は、気晴らしのため、愛する御家族を引き連れて花見に出かけることにしました。
 すでに吉野山については、文禄三年(1594)に大名・小名を引き連れて御見物していましたので、今回は京都南郊の名所、醍醐寺
(だいごじ)に行かれることになりました。

 醍醐寺は笠取山(かさとりやま。京都市伏見区)一帯に広がる巨大な寺院です。真言宗醍醐派の総本山で、貞観十六年(874)に修験道(しゅげんどう)中興の祖・聖宝(しょうぼう)が山頂に草庵を建てたのが始まりです。
 時をへて、ふもとに大伽藍
(だいがらん)が造営され、山頂のほうを「上醍醐」、ふもとのほうを「下醍醐」と呼ぶようになりました。ちなみに天暦五年(952)に落成した五重塔は、京都府で現存最古の建築物として国宝に指定されています。

 こんなことがありました。
 秀吉様が醍醐寺への書状を書かせていたとき、右筆
(ゆうひつ。秘書)が字を度忘れしてしまいました。
「殿下。醍醐寺の『ダイ』の字は、いかなる字でございましたか?」
 秀吉様は少し考えて、こう命じられたそうです。
「『大』と書いておけ」

 秀吉様は事前に何度か醍醐寺を訪れ、入念な下見を行いました。
 暗殺者が紛れ込む箇所をチェックするということもありましたが、それより何より「どうすればあやつらを喜ばせることができるか」に重点がおかれていたようです。
「あやつら」とは御家族のことです。特に、愛児・秀頼様のことです。
 秀頼様は御年六歳。年をとってからの子供はかわいいと申しますが、秀吉様の親バカぶりは特に有名です。

 これは花見の少し後のことですが、こんなこともありました。
 秀吉様は秀頼様に次のような手紙を書いています。

「おかか(淀殿・よどぎみ。秀頼の生母)から聞いたぞ。おまえの言うことを聞かない侍女が四人いるそうだな。おととが全員たたき殺してやるから、そいつらを捕まえさせて縄でしばって待っていなさい」

 醍醐寺を訪れた秀吉様が驚いたのは、桜の多さではなく、寺の粗末さでした。
「なんじゃこれは。ボロボロじゃのう」
 醍醐寺座主の義演
(ぎえん)は困ったように言いました。
応仁の乱ほか数々の戦乱のため、建物は燃やされ、荘園は奪われ、もはや再建する財力も気力もございませぬ」
「われら武士のせいで寺が荒廃したと申すのじゃな」
「めっそうもない」
「分かったわい。再建してやるわ」
 秀吉様は三宝院
(さんぽういん)や金堂(こんどう)など諸堂の再建を命じ、三宝院庭園を造営、畿内各国から桜の木を七百本集め、境内に植えさせました。

 花見の準備は着々と進められました。
 支度は主に浅野長政増田長盛前田玄以長束正家、そして私という、いわゆる五奉行が担当しました。
 また、女房たちの衣装の調達については、南九州の大名・島津義久
(しまづよしひさ)にお任せになりました。
「やってくれるか?」
 秀吉様から命じられては、やらないわけには参りません。
「身に余る光栄でございます」
「女房衆は、ざっと千三百人いるが」
「千三百人 と、おっしゃいますと、千三百着も!」
「いや。こやつらがみな、三度ずつ衣装替えを行う」
「ひえっ!」
 イジメです。義久は先の九州攻め秀吉様に屈服しましたが、薩摩大隅などの領地を取り上げられずにすんだため、反抗もできません。
 義久はヤケクソになり、これらを京都の一流職人にあつらえさせました。今で言う一流ブランド店に注文を出したのです。そのため、島津氏の財政は火の車となりました。

 花見の日、伏見城から醍醐に向けて、長い長い行列は出発しました。
 花見会場は醍醐寺の三宝院です。
「三月十五日に太閤殿下が醍醐寺にお花見にお出かけだそうだ」
 うわさはとうに近郊の人々に広まっていましたので、ものすごい見物人です。
 沿道には幕が張られ、増田長盛・京極高次
(きょうごくたかつぐ)・福島正則(ふくしままさのり)・蜂須賀家政(はちすかいえまさ)らが軍勢を率いて警護にあたりました。
「ちぇっ。警護の武士ばかりで太閤殿下やお姫様ら、見えないじゃないか」
 不平を言う町人に、別の町人が言いました。
「花見会場へ行けば、見えるだろう」
 そのため、私が親切に教えてやりました。
「残念だが、男は花見会場には出入りできないのだ」
 町人は不満そうでした。
「そうなんですか。北野
(きたの)のときは誰でも自由に出入りできたのに」
 天正十五(1587)年十月一日、京都の北野天満宮
(てんまんぐう。京都市上京区)にて大茶会が開かれたことがありました。いわゆる北野大茶湯(おおちゃのゆ)です。このときは貴賤を問わず、誰でも参加できたんですが、今回は警備の武士を除いて男子の入場を禁止しました。
 今回は秀吉様御一家のプライベートのお出かけだからということでしょうが、女子の出入りは自由だなんて、どうしてでしょう?
 秀吉様は女性に親切でした。女性びいきでした。言い換えれば、スケベでした。織田信長様は二刀流だったらしいのですが、秀吉様は女性にしか興味がない、正統派の助平だったようです。

 こんなこともありました。
 秀吉様の小姓に羽柴長吉
(はしばちょうきち)という少年がおりました。長吉は美少年で、秀吉様のお気に入りでした。
 あるときある家臣が、秀吉様が長吉の耳元でなにやらささやいているのを見かけました。
 家臣には、二人はとても楽しそうに見えました。そして、疑念を抱きました。
(太閤様と長吉は、実は怪しい関係なのではないか?)
 気になった家臣は、長吉が一人になったのを見はからって、さりげなく尋ねてみました。
「さっき、太閤様に何と言われておったのじゃ?」
 すると長吉が笑って言いました。
「『おまえに姉妹はおらぬか? おればさぞや美人であろうに』と」
 残念ながら、長吉に姉妹はいなかったそうです。

 三宝院の参道には桜並木が連なっています。今では桜馬場といわれ、毎年四月の第二日曜日に「太閤花見行列」が催される場所です。
 満開の桜の中、まず、秀吉様が御到着しました。
 続いてきらびやかな輿
(こし)が次々と入ってきます。秀吉様の奥様方の輿です。
 秀吉様には、少なくみつもっても十六人の妻たちがいました。当然序列があり、輿は偉い順に入ってくるわけです。
 以下が当時の序列のナンバーファイブまでです。

序列 呼び名・名前 別名・続柄 御輿奉行
正 室 北政所様(浅野おね) 別名、寧々・高台院。杉原定利の娘。 小出吉政・田中吉政
第一側室 西ノ丸殿(淀殿) 別名、茶々。浅井長政の娘。 木下延重・石川頼明
第二側室 松ノ丸殿(京極竜子) 京極高吉の娘。元武田元明の妻。 朽木元綱・石田正澄
・太田牛一・平塚為広
第三側室 三の丸殿(織田氏) 織田信長の娘。 片桐且元
第四側室 加賀殿(前田麻阿) 前田利家の娘。 河原長右衛門
・吉田又左衛門

 奥様方は久々のお出かけににこやかでしたが、一人、不機嫌な方がおられました。
 松ノ丸殿・京極竜子
(きょうごくたつこ)殿です。
「なんでわらわが淀の下なのよ」
 彼女はこの序列が気に入らないのです。
 竜子殿の実家京極家は、室町幕府四職に連なる名家でした。全盛期には近江ほか五か国の守護職も務めていたこともありました。
 一方、淀殿の実家の浅井家は京極家の家来筋です。しかも下克上によって京極家から領国近江を奪った憎き敵の家なのです。
 ただ、数年前までの序列は竜子の方が上だったようです。
 淀殿が竜子殿を追い抜いた理由――。
 それは秀吉様の御子息を産んだことにほかなりません。
 しかし、竜子殿は疑っていました。
(あれは秀吉様の子じゃないわ。数え切れないほどのオンナがいながら、淀だけが二人
(鶴松と秀頼。鶴松は三歳で死去)も子を産むなんて、どう考えても不自然じゃない)
 竜子殿の怒りは会食のときに爆発しました。
「杯を取らす」
 と言う秀吉様に、竜子殿が序列を無視して淀殿より先に杯を取りに行ったのです。
 当然、淀殿は怒りました。
「順番が違うでしょ!」
 竜子殿を押しのけて杯を取りにいこうとしました。
 もみ合う二人に、
「みっともない」
 と、北政所様と前田利家殿の奥方
(前田まつ)がしかりつけて治めました。

 歌会後、秀吉様は秀頼様たちを引き連れて、大名たちが設けた八つの茶屋を回りました。
 八つともただの茶屋ではなく、様々な趣向を凝らしたパピリオンです。

 一番目の茶屋は竹田少将(たけだしょうしょう。竹田定加? または益田少将)出店の茶屋です。
「いらっしゃいませ」
 この方はあまり存じませんが、なんでもの医師のようです。お茶を一服飲んで裏へ回ると滝があり、継橋を上っていくと、山の桜や眼下の景色が見事です。
「すごいすごい! サクラいっぱい! ニンゲンちっちゃい!」
 秀頼様がはしゃぐのを見て、秀吉様はとても満足そうでした。
 行く先々、道端にいろいろな品物が無造作に山のように置かれていました。全国から集められた銘菓・銘酒・山海の珍味・織物・陶磁器・宝飾品・調度品などです。
「あれらはどうしてあんなところに置かれてあるんでしょう?」
 女房たちが話しているのを見て、秀吉様が言いました。
「そちたち、好きなだけ持って帰っていいのじゃよ」
「きゃー!」
 とたん、宝の山に女房たちが群がりました。まるでバーゲンセールのようです。なんせタダなんですから、気合も違います。

 二番目の茶屋は新庄新斎(しんじょうしんさい。直頼?)が出店しました。
 岩の池にコイやフナが放してあり、人が歩いていくと、われもわれもと争って寄ってきます。このときのために、わざと腹ペコにしてあるのでしょう。秀頼様はエサを与え、そいつらが涙を流さんばかりにパクパク食べるのを楽しんでおりました。

 三番目の茶屋は小川祐忠(おがわすけただ。または小川祐滋)が出店しました。
 茶室内には、今にも動き出しそうな、迫力たっぷりの馬や鷹の絵が描かれていました。狩野山楽や長谷川宗仁
(はせがわそうにん)といった当代一流の画師に描かせたものです。ただ、秀頼様の興味は茶菓子にあるようでした。

 四番目の茶屋は増田長盛の出店です。
 さすがに出店者中ナンバーワンの富豪
(大和郡山二十万石)だけあって、この茶室が最も豪華でした。
 仮屋にもかかわらず、畳の代わりに金銀箔
(きんぎんぱく)を敷き詰め、もうまぶしすぎです。ほかにも趣向を凝らしていたようですが、金銀箔に日光が反射してほかのものはほとんど何も見えません。茶室を出ると、秀頼様、しきりに目をこすっておられました。

 五番目の茶室は前田玄以の出店。お座敷もあり、茶室というより、料亭のようです。
「どうぞ上へ」
 上の御殿へ上がると、見目うるわしいコンパニオンのお姉さま方がいっせいにお出迎えです。秀吉様は喜んでおられましたが、秀頼様は興味がないし、奥様方には不評だったため、早々と後にしました。

 六番目の茶室は広い食堂になっており、みんなで会食です。長束正家の出店ですが、調理は長盛が仕切りました。
 今日は食材も料理人も全国から集められてきているため、見たことも口にしたこともないような料理ばかりが次から次へと運ばれてきます。普段はいがみ合っている奥様方も、おいしい料理を食べているときだけは、すこぶる仲良しです。

 七番目の茶室は御牧景則(みまきかげのり。御牧勘兵衛)が出店しました。彼は山城の検地奉行をしている者です。
 なかなか装飾や調度品など考えていたようですが、今までのものに比べると見劣りし、あまり印象に残っていません。

 最後の茶室は新庄直忠(しんじょうなおただ。東玉)の出店です。
 彼は蔵入地
(くらいりち。豊臣家直轄領)の代官で、すでに八十近い御老体ですが、先の朝鮮出兵にも従軍しました。天下の名勝・近江唐崎(からさき。滋賀県大津市)の環境保全に努めたことで知られています。
「最後だけにすごい茶室なんだろうね」
 後ろで女房たちがヒソヒソ話しています。
 秀吉様もどんな茶室なのか知りません。どの茶室の内容も、当日まで内緒なのです。秀吉様も秀頼様もとても楽しみのようです。
 いよいよ敷地に入りましたが、これはと思うものはありません。岩清水にししおどしがありましたが、どこにでもあるようなものです。
 通路の横に売り棚があり、いろいろな商品が置かれてありました。
 しかし、張子の人形・ひょうたん・ぞうり・扇など、どれもこれも手作りのものばかりで、高価なものは何もありません。
  草庵の入り口に、「光相庵」と傾いた額が掲げてありました。しかし、光っているどころか、浮浪者の住みかと見まがうばかりのボロボロの草庵です。
 秀吉様は首を傾げました。
「中が光っておるんかのう?」
 しかし、中も粗末なものでした。薄暗くてじめじめしていますが、ほんのり香が香りました。
 直忠がお辞儀をして茶を立てました。茶道具もどこにでもあるようなものです。茶碗も自分で作ったんでしょうか? でこぼこしてゆがんだ茶碗です。
 茶受けも高級な和菓子ではなく、素朴な焼餅
(やきもち)です。
 秀吉様はお茶も焼餅もいただきました。感想はおっしゃいませんでしたが、満足されたんでしょうか、目を細めておられました。
 風が吹くと鳴子
(なるこ)が鳴ります。なつかしい感じのする音です。
 桜の花びらが一枚、風に吹かれて入ってきました。それがはらりと秀吉様の目の前に落ちました。
 秀吉様は気づいたように、外の桜を見やりました。
利休好みよのう」
 秀吉様は前に茶道の祖・千利休殿を切腹させました。利休殿は秀吉様と異なる感性を持っていました。秀吉様はそれを「反抗」とみなしたのです。直忠のこの茶屋は利休殿の「反抗」を支持するものでした。
 しかし、秀吉様は怒りませんでした。むしろ、御機嫌でした。秀吉様は外で遊ぶ秀頼様を見ておられました。
 秀頼様は大きな水桶
(みずおけ)に浮かべてあった舟で遊んでおりました。舟は瓢箪(ひょうたん)を切って作ったものです。瓢箪の舟には、紙人形が乗せてありました。直忠が作ったんでしょうか? 不細工な人形でした。舟もまた、みっともないものでした。しかし秀頼様は、その舟と人形をほしがりました。
「おとと。これ、もってかえっていい?」
 秀吉様はうなずき、直忠をおほめになりました。
「見事じゃ。確かに光っておったぞ」
 直忠はうれしそうでした。秀吉様もうれしそうでした。
 秀吉様は満開の桜を改めて眺めました。
利休の茶が飲みたくなったのう――」
 これより五か月後、秀吉様はお亡くなりになりました。

[2002年2月末日執筆]
ゆかりの地の地図

参考文献はコチラ

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