5.花見味 基礎用語集

浅野長政(あさのながまさ)←浅野長吉
 (1547-1611) 武将。五奉行首座。豊臣秀吉の義弟。浅野長勝の養子。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉に従って検地・軍事を担当、甲斐府中城主となるが、豊臣秀次(ひでつぐ)処刑事件に関わって一時失脚、1598奉行となるが、1599引退、1600関ヶ原の戦では徳川家康に属した。

足利義満(あしかがよしみつ)
 (1358-1408) 室町幕府三代将軍(在職1368-1394)。義詮の子。京都室町に花の御所を造営し、1379管領・細川頼之(ほそかわよりゆき)を斯波義将(しばよしゆき・よしまさ)と交代(康暦の政変)、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を僧録(そうろく)に任じ、1382相国寺(しょうこくじ)を創建、五山十刹(ござんじっさつ)制を整備し、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)ら五山文学僧を重用、1390土岐(とき)氏の乱で土岐康行(やすゆき)を、1391明徳(めいとく)の乱で山名氏清(やまなうじきよ)を討ち、1392南朝の後亀山(ごかめやま)天皇を京都に迎えて南北朝合体を実現、1394子・義持に将軍職を譲り、太政大臣に就任、北山に隠居し、金閣を建立、能の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子を重用するなど北山文化の担い手となり、1399応永(おうえい)の乱で大内義弘(おおうちよしひろ)を滅ぼし、1404明(みん)と勘合(かんごう)貿易を始めた。

石田三成(いしだみつなり)
 
(1560-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、太閤検地などに手腕を発揮、近江佐和山城主となるが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に敗れて処刑された。
花見味 変節味

応仁(おうにん)の乱=応仁・文明(ぶんめい)の乱
 (1467-1478) 管領細川勝元(ほそかわかつもと)と嘉吉の乱以後台頭した山名持豊(やまなもちとよ。宗全)の対立に将軍家(足利義視vs足利義尚)・畠山氏(畠山政長vs畠山義就)・斯波氏(斯波義敏vs斯波義廉)の家督争いが絡んで起こった戦。京都を中心に十一年間繰り広げられたが、1477勝元・持豊が相次いで病没し、翌年、両軍は講和した。領土味

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 大雪味 銃器味

狩野山楽(かのうさんらく)
 (1559-1635) 画師。狩野永徳(えいとく)の門弟。元豊臣秀吉の小姓。作品「松鷹(しょうおう)図」「牡丹(ぼたん)図」など。

歌舞伎(かぶき)
 安土桃山時代に始まった舞踊劇。出雲阿国(いずものおくに)の「かぶき踊り(阿国歌舞伎・女歌舞伎)」が始まり。女歌舞伎や若衆(少年)歌舞伎は間もなく禁止されたが、野郎(おじさん)歌舞伎は現在まで続いている。

九州攻め(きゅうしゅうぜめ)・九州征伐
 九州征伐とも。全国統一を目指す豊臣秀吉と九州統一を目指す島津義久(しまづよしひさ)との戦争。1578耳川(みみかわ)の戦で義久に大敗した大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に救援を依頼、秀吉は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・仙石久秀(せんごくひさひで)らを遣わしたが、1586戸次川(へつぎがわ)の戦で敗れた。1587秀吉は出陣し、自らは肥後路を、弟の豊臣秀長(ひでなが)は日向路と別れて進撃、日向高城(たかじょう)救援に失敗して戦意を喪失した義久は降伏した。

京極氏(きょうごくし)
 中世に栄えた氏族。室町幕府四職の一。北近江守護家。宇多源氏で、氏祖は佐々木信綱(ささきのぶつな)の子・氏信(うじのぶ)。鎌倉時代に評定衆を務め、高氏(導誉)が室町幕府創立に貢献、応仁の乱で衰退し、浅井氏におびやかされたが、高次(たかつぐ)が織田信長・豊臣秀吉に仕えて復興、1600関ヶ原の戦で東軍につき、讃岐丸亀藩主ほか明治維新まで生き残った。

下克上(げこくじょう)
 下の者が上の者をしのぐこと。鎌倉時代に現れ、南北朝〜戦国時代にかけて盛んになった風潮。これにより各地に戦国大名が゛出現し、一揆が蜂起した。

古事記(こじき)
 現存日本最古の歴史書。3巻。紀伝体。天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱していた昔話を太安万侶(おおのやすまろ)が編集。神代〜推古朝までを収録。

五奉行(ごぶぎょう)
 豊臣政権の職名。奉行人。石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)の五人。秀吉没後、徳川家康により解体を余儀なくされた。

西行(さいぎょう)←佐藤義清(さとうのりきよ)
 (1118-1190) 歌人・僧。鳥羽(とば)上皇に北面の武士として仕えた後、出家して全国を放浪、歌集『山家集』『西行上人集』『聞書集』『残集』などを残した。

(さかい)
 現在の大阪府堺市。大阪湾に面した港町で、室町時代から勘合貿易や南蛮貿易で繁栄。三十六人の門閥豪商からなる会合衆(えごうしゅう)が町政を執った。織田信長に多額の矢銭(軍資金)を要求されて抵抗したが、結局屈服した。江戸時代は幕領。

山家集(さんかしゅう)
 歌集。三巻。編集者不明。六家集の一。西行の作品集。花と月の歌が多い。

四職(ししき)
 室町幕府の侍所所司になる資格のある家。山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極氏の四家。土岐(とき)氏を加えて五職とする説もある。

守護(しゅご)
 室町・鎌倉時代の地方官。国ごとに置かれた軍事・行政長官。源頼朝(みなもとのよりとも)が設置したのが始まり。戦国時代に下克上により衰退するが、なかには戦国大名化するものもあった。

荘園(しょうえん)
 貴族や寺社の私有地。自力で開墾したもの(自墾地系)と、寄進されたもの(寄進地系)に分けられる。鎌倉時代以後、武士に奪われ、太閤検地(たいこうけんち)の実施によって消滅した。

真言宗(しんごんしゅう)
 仏教の流派。空海(くうかい)が創始。天台宗(てんだいしゅう)の台密(たいみつ)に対して東密(とうみつ)と呼ばれる。京都の東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)の金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に発展し、三十六流に分かれた。

関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)
 豊臣秀吉没後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣政権を守ろうする石田三成(いしだみつなり)が美濃の関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で対決した戦。1598秀吉が没し、1599前田利家(まえだとしいえ)が死ぬと、家康の勢力は拡大、1600反抗的な態度を取った上杉景勝(うえすぎかげかつ)攻め(会津攻め)に向かった。一方、三成は家康の留守を突いて挙兵、毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川秀秋(こばやかわひであき)・小西行長(こにしゆきなが)らを味方につけ、京都の伏見城(京都市伏見区)等を攻略、美濃の大垣城(岐阜県大垣市)に入った。一方、家康は三成を討つため小山(おやま。栃木県小山市)で引き返し、福島正則(ふくしままさのり)・池田輝政(いけだてるまさ)を西上させ、織田秀信(おだひでのぶ)の守る岐阜城等を陥落させた。両軍は関ヶ原で激突するが、小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りや、吉川広家(きっかわひろいえ)の内応静観などで三成方は壊滅、三成は行長らとともに京都で処刑された。 変節味4

千利休(せんのりきゅう)=千宗易(せんのそうえき)
 (1522-1591) 茶人・豪商。茶道(千家流)の祖。武野紹鴎(たけのじょうおう)にわび茶を学び、茶道を大成、織田信長・豊臣秀吉に仕え、多くの貴族や武将たちを弟子とし、政界にも大きな発言力を持つにいたるが、1591秀吉の不興を買って切腹させられた。

大覚寺統(だいかくじとう)
 亀山天皇の皇統。大覚寺を御所としてことからこの名がある。代々八条院領を相続。室町幕府が開かれると吉野に南朝を立て、北朝(持明院統)と対立するが、1392南北朝合体後は皇位に就けなくなった。

徒然草(つれづれぐさ)
 南北朝時代の随筆。二巻。1319〜1350頃完成。吉田兼好(よしだけんこう)著。隠者文学の代表作。無常観が漂う。カネ味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 地震味4 日朝味7 芸人味変化味 花見味 変節味

豊臣秀頼(とよとみひでより)
 (1593-1615) 武将。秀吉の子。母は淀殿(よどどの。淀君)。1600関ヶ原の戦により天下人後継者から一大名に転落、徳川秀忠(ひでただ)の娘・千姫(せんひめ)と結婚するが、1615方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件から起こった大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で徳川家康に敗れ、淀殿とともに自殺した。
花見味 籠城味

長束正家(なつかまさいえ)
 (?-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、財政や検地に活躍、1600関ヶ原の戦では石田三成に属し、敗れて自殺した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

日本書紀(にほんしょき)
 日本最古の勅撰歴史書。編年体。30巻。系譜1巻(現存せず)。舎人親王(とねりしんのう)・藤原不比等らが編集。神代〜持統朝までを収録。

(のう)=能楽(のうがく)
 奈良時代に伝わった散楽(さんがく)や、平安時代に起こった猿楽(さるがく)、鎌倉・南北朝時代の発展した田楽(でんがく)などの流れをくむ芸能。室町時代に観阿弥清次(かんあみきよつぐ)・世阿弥元清(ぜあみもときよ)父子が庶民的な舞台芸能に改良した。 

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

伏見城(ふしみじょう)
 桃山城とも。1592豊臣秀吉が築城開始。1596慶長の地震で倒壊するが、すぐに再建。秀吉死後は徳川家康が居城とし、1607伏見城代を置いたが、1623解体。西本願寺書院・唐門・都久夫須麻神社本殿・唐門はその遺構とされる。

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
 (1592-1593,1597-1598) 壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱とも。豊臣秀吉が明を征服するため朝鮮に侵攻した戦争。1592秀吉は加藤清正(かとうきよまさ)・小西行長(こにしゆきなが)ら十六万の大軍を朝鮮に派兵、漢城(現ソウル)や平壌(ピョンヤン)などを攻略し、ほぼ朝鮮全域を蹂躙(じゅうりん)するも、明の救援、義兵の反乱、水軍の将・李舜臣(りしゅんしん)の活躍により後退。1593一時停戦し、明との間で講和交渉が進められたが決裂し、1597再度十四万の大軍を派兵するも苦戦、1598秀吉の死により撤退した。
日朝味7 変節味3

前田玄以(まえだげんい)
 (1539-1602) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕えて京都奉行を務め、公家や寺院を統括、近江八幡城主となり、1600関ヶ原の戦で石田三成に表向きは属すが、徳川家康に内応し、戦後、領地を安堵された。

前田利家(まえだとしいえ)
 (1538-1599) 武将。五大老の一。織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)の名代として能登七尾(ななお)城主となり、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で豊臣秀吉に属して加賀金沢(かなざわ)城主となり、秀吉死後は遺児秀頼の後見役を務めた。

増田長盛(ましたながもり)
 (1545-1615) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、検地や朝鮮出兵で手腕を発揮、大和郡山(こおりやま)城主となり、奉行に列するが、1600関ヶ原の戦で敗れて追放、1614-1615大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で子・盛次(もりつぐ)が豊臣方についたため、自害させられた。

万葉集(まんようしゅう)
 
現存最古の和歌集。770頃完成。20巻。大伴家持(おおとものやかもち)の編集か。万葉仮名で記される。約四千五百首を収録。雑歌(一般歌)・相聞歌(恋愛歌)・挽歌(哀悼歌)に分類される。
怨霊味4

室町幕府(むろまちばくふ)
 (1336-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して創始。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

吉田兼好(よしだけんこう)
 
(1283?-1352?) 歌人・文人。本名は卜部兼好(うらべかねよし)。二条派の和歌四天王の一人。著『徒然草』『兼好法師集』。

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