4.第二次分倍河原の戦(1333.5/16)

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紛争に明け暮れる世界
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4.第二次分倍河原の戦(1333.5/16)

 五月十五日晩、堀金の新田義貞の陣所に来客があった。
「拙者、三浦氏の一族で、大多和義勝
(おおたわよしかつ。あるいは義行か?)と申します。新田様の下に相模の松田・川村・土肥・土屋・本間・渋谷ら土豪六千騎を率いて参上いたしました」
 義貞は苦笑いした。
「ほう、めっきり兵の数が少なくなった我々に味方してくれると?」
「はい」
「ありがたいが、それでも味方は六万六千騎。十六万騎――、いや、十五万四千騎の幕府軍に勝てる兵力にはならない」
「お言葉ですが、幕府軍は十五万四千騎ではなく、十二万騎です」
「何だと?」
「次の戦では大多和勢六千騎だけではなく、宗家の三浦勢も合わせて四万騎が寝返る予定になっております」
「四万騎も!」
 脇屋義助が喜んだ。
「――ということは幕府軍十二万騎に対して我が軍は十万騎!」
「うむ、互角に戦える兵力差になるな」
 それでも船田義昌は心配性であった。
「そうだとしても、劣勢を覆すまではいってません。消沈の新田軍が幕府軍に勝つためには、それなりの策が必要かと」
 義勝は笑った。
「策も考えております」
「どのような?」
「幕府軍はいまだ三浦勢の寝返りを知りません。そのため拙者どもは幕府軍の陣所へ戻ったふりをすることができます。戻ったところで突然暴れるというわけです」
 義貞はうなずいた。
「なるほど、混乱を突いて新田軍が攻め込めばいいのだな?」
「その通りです」
 義貞は、グバァと勇み立った。
「勝てるぞ!」
 それでも義昌は心配性であった。ボソボソとこう言ってみた。
「いまだ幕府軍が寝返りを知らないということは、寝返りがなかったとしても不自然には思われないということ」
 義助も不安になったので義勝に聞いてみた。
「貴殿が幕府を見限った理由を知りたい」
「はい、幕府が信じられなくなりました」
「具体的には?」
「幕府は重大な情報を拙者どもに隠しております」
「重大な情報?」
 義勝は密書を渡した。
「どこからのだ?」
「西国からです」
 義貞が広げて読んだ。
 見る見る歓喜の笑いが込み上げてきた。
 義貞が密書を返して言った。
「おもしろい!この情報は明朝の決戦時に大々的に敵味方に言いふらせ!」
「明朝ですか?」
「そうだ!作戦決行は明朝寅の刻
(午前四時頃)だ!頼むぞ、大多和!みなの者も急いで出陣の支度をせよ!」
「ははーっ!」

 大多和義勝は分倍河原にある幕府の陣所へ戻っていった。
 正確には、戻っていくふりをした。
 で、翌五月十六日寅の刻、鬨
(とき)の声も上げずに静かに幕府軍に襲いかかったのである。
 ブス!ブス!
 チャン!チャーン!チャリーン!
 ヒュンヒュン!バラバラバラ!
 幕府軍は慌てふためいた。
「え?あんたら敵なの?」
「いつの間にこんな近くに!」
「ちょっと待った!酒、飲んでるし〜」
「女、抱いてるし〜」
「鎧兜
(よろいかぶと)はどこ?どこ?」
「馬は?鞍
(くら)は?」
 ジュバ!
 ジュビビ!
「いったいなー!まだだっつーの!」
 ブススス!
「あれー!今起きたばっかなのに、ボクちゃんもう永遠の就寝〜」

現在の関戸周辺(東京都多摩市)

 示し合わせていた新田軍も猛攻を開始した。
 二手に分かれて挟撃してやったのである。
 その折、大音声であの情報を敵味方に触れてやった。
「五月七日、足利軍らが六波羅軍を破り、京を攻略!」
「同日、六波羅探題南方・北条時益
(ときます)、東山にて敗死!」
「五月九日、六波羅探題北方・北条仲時
(なかとき)近江番場にて自害!六波羅探題滅亡!」
 幕府軍の動揺ははなはだしかった。
六波羅滅亡!?」
「どーなってんの、西国は!?」
「それより今の我々の状況は何なんだ?」
「敵だらけじゃねえかよー」
「もう終わりだ〜」
 悲しみのあまり号泣する武士もいた。
「うーはっふっはーん、うーん!ずっと戦争してきたんですわ!せやけど、変わらへんからー、それやったらワダヂが、立候補してっ、文字通り、あははーん!命がけで、いぇーひっふばー!じゃあ俺がああ、立候補してっ、この世の中をっ、うぐぶばーん!ごの、この世の中のぶっひふぇーーーん!ひぃぇーふううん!うぅ、うぅ、ばぁー!ごのっ、世っ、中がっはっはあん!、ばー!世の中をっぅ変えだいっ、その一心でえ〜、ひーっふっふ。一所懸命訴えて、幕府にっ、縁もゆかりもない幕府の皆さまにっ、選出されて、やっとっ、武士にっなったんですううーーー!!」
 幕府軍は瓦解
(がかい)した。
 桜田貞国らは我先にと鎌倉目指して落ち延びて行った。

「このままではすまさぬ」
 北条泰家は霞ノ関
(かすみのせき、関戸。東京都多摩市)で踏みとどまって一戦を試みたが、結局、安保道堪・横溝八郎ら百人余りを討ち死にさせただけであった

(「操縦味」へつづく)

[2014年7月末日執筆]
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